奇異な人間の模倣性
猫いらずの害と新聞紙の再生産
オスカー・ワイルドは、
「
近代の新聞紙は社会の反射鏡だといわれている。
ただそれ反射鏡であるがゆえに、社会の出来事を如実に写すのみではなくて、
彼はその鏡に写った
営業的なる近代の新聞は何が故に、しかく藝術品となり、 しかく出来事を生産するの資格を有するに至ったかというに、 それは人間に模倣性なるものがあるからである。 模倣性は、いずれかといえば、人間の本能である。 人間は、善悪とも、他の行為を模倣するの本能を有している。 この模倣性があればこそ、 社会や文化は今日のように進歩し来ったのである。 第一、人間にこの模倣性がなくては、 教育は存在しない。 「まなぶ」 は 「まね」 より転化し来った語であり、 また事実であることは、 今あらためていうの必要がない。 果して然りとすれば、 新聞紙に掲載されたる記事が、 読者の心理に多大の影響ないし刺戟を与え、 記事中の人物と同様ないし類似の境遇に置かれたる彼らが、 直ちに進んでその人物と同様ないし類似の行動に出づるのは、 言い換えれば、 これを模倣するに至るのは、 不思議でも何でもない。
新聞紙が、
新聞紙が
特に最近、最も私どもの目に立っているのは、
新聞紙が猫いらずをもって自殺を遂げた一
奇異なるは人間の模倣性である。
この模倣性があればこそ、人間は善い方にも導かれ、
また悪い方にも
人間の模倣性は、
水の破壊性に似ている。
水に、
堤防を決潰し、
田園を荒し、
家屋を流し、
人畜に死傷あらしむる破壊性あればこそ、
人間はこの破壊性を利用して、
電力、動力を
かく論じ来るときは、 私どもは新聞紙が藝術品であり、 そして日々出来事を生産しているの事実を認め得ると同時に、 人間の模倣性にもとづく悪行の伝播、感染については、 新聞紙は絶対の責任を帯ばなければならないであろう。 しかも新聞紙が社会の反射鏡である以上、 その使命を果した上より言い、 刑法にいうところ正当の業務によって行われた犯罪であるから無罪である。
ただ、かの猫いらずが鼠を退治せずして、 かえってしかく多くの人間を退治したる事件に関して、 やや責任あるらしく思われるのは、 内務当局であろう。 内務当局も最近ここに観るところがあって、 猫いらずは一定の期間、 市町村役場もしくは警察の手を経て、 これを売買することにし、 養蚕の盛んなる地方、 その他特殊の場合には便宜の方法を取ることにするとのことである。 結構なる手加減であって、 これによって幾分か猫いらずを濫用する自殺他殺の数が減ぜらるるであろうと思われる。 ただし幾分かその数を減じ得るだけであって、 猫いらずが依然として販売され、 そして新聞紙があり、 人間に模倣性がある以上、 これを濫用する自殺他殺ないし誤死を根絶するの不可能なるはいうまでもない。
〔大正10年6月15日 『新愛知』 1面トップ論説〕