三つの錯誤
廿九日の『新愛知』に現れた「新聞と識者の使命」なる論説は、一読者である私をして、ツイ何か言ってみたく思うまでに、異常な興味を
「デモクラシーの
「ジャナリズムの原則の規則正しき解釈の第一歩は、デモクラシーに対する作用の考慮であらねばならぬ」と謂った米のブリーヤー教授とともに自分達は、新聞は社会的心理に触れて
「英雄の時代は去った。個人は如何に偉傑であっても、今日の大英国を統一支配することはできない」といったウェルスの言に
新聞が資本主義的組織のもとに利潤の絞取りを目的とし、記者その人に、複雑な社会現象に対する透徹したる洞察力と、それを行使しようとする勇気と情熱との、いくら探しても見当らない現状や、不偏不党の看板は懸けていても、何かの団体の利益を代表し、少くも資本階級の保護者であることの三つの理由によって、今日の新聞は、もう社会教育の機関ではないという人達すらある位なのだ。
新聞が自然主義時代から新理想主義時代に移ったことは『新愛知』の教示を俟つまでもないことであるが、新理想主義がアリストクラシイであるというに至っては、何遍も繰返さねばならぬほど、面喰わざるを得ぬ。
今日の民衆は、一人や二人の記者やいわゆる識者に引きずり廻されねばならぬほど、しかく程度の低いものだろうか。社会生活の進歩、もしくはその変化、ならびに社会意識の発達ないし向上は、民衆に十分なる「考える」力を養い得ている。
「感じる」時代は去った。今は「考える」時代である。
「考える力」も「観る力」もない盲目なものと、我々民衆を取扱わるる態度には痛み入る。
ショペンハウエルの「新聞は社会の影である」とは、ごく初期の新聞観で、今日は新聞は社会の強烈なる反射鏡である。『新愛知』は「社会の反射鏡を目的としている新聞紙は最早錯誤であらねばならぬ」といっているけれども、それは至極単純な観方であるといわねばならぬ。
「一旦社会を反射したその光は、
〔大正10年12月4日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕