教育革新のために――私立学校の設立を望む
掛川生
教育界に画一打破の声は久しいものである。凡そ教育を口にするほどのもので、画一打破を叫ばない者はない。近頃主張されるところの個性尊重の教育も、児童本位の教育も、或いはまた各教科目について頻りに唱えられるところの新主張も、この画一打破の叫びに外ならない。而してこれらは一面から観れば、個人主義の思想すなわち個人尊重の思想から出発して抽象的な一大打破の主張となり、さらに進んでその具体的、実際的の主張となり、実行へまでの過程と観られないでもないが、然しそれにしても斯く画一打破を叫ぶこと久しく、その声高くして、その実行においてほとんど零であるのはどうした事であろう。主張即ち実行でなければならぬが、それは主張がそのまま完き形において表われなくとも、その本質において主張への変化があってこそ肯定さるべきことで、その本質においても、形の上においても何らの変化も見ることのできない主張は、たとえそれが如何に声高く叫ばれようとも、空虚な主張である。
画一打破の声が余りに高くして、しかも余りに空虚な響きのごとく感じられる理由はここにあるが、その責を、それを主張する者にのみ負わせることはできない。その一つは教育者の罪であり、一つは歴史および社会の罪であり、一つは制度の罪である。教育者に本当の自覚なく、徹底した信念なく、実行の勇気なく、而して一方からは歴史および社会がこれを妨げ、一方からは制度がこれを妨げて居るのであるが、ここに殊に遺憾に堪えないのは、真に自覚し、確信の上に立って実行する勇気を持っている教育者がありながら、社会や制度の障害のために、その行おうとする事が妨げられ、或いは失敗することである。かくして画一打破の声は高くして実行はそれに伴わないので、実行されないから、一層その叫びは高くなるのである。
これを救う一つの道として私は私立学校の設立を望むのである。元来、私立学校は官公立学校の補充のごとく考えられていたのであるが、私は違った意味において、すなわち、教育革新のために、私立学校の設立を望むのである。私立学校にあっては、官公立学校のごとく制度および行政方面から束縛を受けること少く、教育者は自由に自分の信ずるところを行ってゆくことができる。現在においては官公立の学校においては、それは到底不可能である。私立学校においてのみ本当の教育らしい教育は可能であり、教育の理想は育ち、真に教育の革新は行われてゆくのである。
現在においても中等程度以上の学校には私立のものが多いが、その多くは単に官公立学校の補充のために設けられたものであって、したがってまた営利的であって、吾らの理想には遠いものである。であるから私は中等程度以上の学校にも本当に理想的な私立学校の設立されることを望むが、さらにより以上に小学校において私立学校の設立されることを望む。
現在のごとく、あたかも牢獄のごとき小学校、鉄砲玉製造のごとき教育からは本当の人間らしい人間は生れて来ない。教育費整理案のごとき時代錯誤暴案の飛出す今日にあっては、せめて私立小学校によってでも教育の面目を保たないことには、真の教育は滅亡してしまう。政府が学級整理を行おうと言うならば、私立小学校において一学級定員二十五名位として真に個性尊重の実を挙げて見せるがよい。昔の塾が各々その特長を持ち、人物を出した所以の一つは、それが私立であり、そこによき教育者があって、他から何らの束縛を受けることなしに自由に自分の信ずるところに従って教育したからである。
現在の教育は人間を仕上げる教育でなく、機械を作る教育である。人間を生かす教育でなく、殺す教育である。本年は学制布かれて五十年に相当する。この時にあたって私は再び言う、本当の人間を生むために、理想的な教育を行うために、而して教育の革新のために、私立学校が設立されなければならない、と。
〔大正11年1月17日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕