第一高等学校長新渡戸稲造は、この頃学生の道心日に衰うるを嘆き、演説する毎に例の自然主義を攻撃して、動物主義、猫犬主義、ニャンワニズムと罵って居るが、これを聞いた一高学生は非常に感嘆の意を漏らし、我が野球団の早稲田を破ったのも完く自然主義がないからだと力味んで居る。
同博士はまた、「日本の財政不振は輸入超過のためだと云うが、今日学界の不振は外学輸入超過のためだ。この過剰の学問は何所かに捨場を求めなければならぬが、これに好個の場所がある。それは即ち華厳瀧だ」と論じて、大いに学生の喝采を博して居る。
隠岐の選挙区で大同派の原田赳城を破った中沼信一郎は、同島から産出した唯一の法学士であるから、島民は是非ともこの秀才を出さねばならぬという意気込となり、遂に楽々と原田を斃すこととなったのだそうな。
利光鶴松は蠣殻町に妾宅を置き、そこを根城として、種々の苦計悪策を案出し、前後二回の電車市有問題の如きも、ここの座敷で画策したものであるが、その後打続く財界不況のため、折角の根城も孤城落日となり、このほど右の妾宅は待合新福井に売渡して、長尾某という愛妾は、日本橋の新堀江町に移し、小さな家に侘住居をさすこととなった。
〔明治41年5月20日 『萬朝報』 2面 「机の塵」欄 無題無署名コラム〕