宗教の根本精神 (1)

峻嶺生

世界の大戦乱も既に終結を告げ、 さに講和を締結せんとするに当り、 いささか宗教に対し卑見を述べたいと思う。

言論界においては諸大家が戦後の経営についてあらゆる方面に力説しつつあるが、 方今ほうこん社会の人心は最早物質的欲求を脱して、 精神的、 特に宗教的方面に向わんとしつつある。 現在当市においても青年が勇猛精進会、 不徹会、 無門会、 浪■なごや会、 その他種々いろいろの会合を組織して盛んに宗教研究に努めつつある。 更に我が桐生主筆によって一度 「信じ得ざるの苦しみ」 が声明せらるるや、 直ちに宗教問題に飛込み、 やれ信仰とは云々うんぬん、 自力は可なり、 いや他力が可なり、と甲論乙駁、 いかな緩急車も二ヶ月有半宗教駅に停車するの止むなきに至り、 遂に進行上桐生駅長は 「残念ながら宗教談は一時御断り」 と汽笛一声、 発車をせしめたのであるが、 とにかく現代青年の間にさかんに信仰心がきざして真面目な生活に入らんとしつつあるは事実であって、 誠に喜ぶべき現象と思う。

しかし惜むらくは、 一般に現代人が宗教の根本精神に徹底しているや否や、 甚だ疑わざるを得ない。 予をして言わしむれば、 彼ら青年の間にも宗教を以て学問の一事項となすか、 或いは好事の一事項となし、 宗教各種の教義を比較し、 宇宙が什麼どうの、 哲学が什麼のと高尚なる学理上の詮索のみにわたって、 真の宗教的慰安が那辺にあるかを解せない傾きがある。

就中なかんづく、 或る者のごときは表面宗教を重んずるかのごとく装い、 裏面には確かに宗教を軽んじ、 徒に僧侶を罵詈し、 喫緊の問題に対してはつねに軽々のかんして、 何ら真摯に討究を費すことをせず、 宗教の弱点弊害を見出さんことのみに腐心している様だが、 予のはなはだ以て意に解せないところである。

宗教もその形式から言えば社会の一機関で、 仏教とかキリスト教とか、 或いは寺院僧侶というものがあり、 商業とか工業とかいう機関とさらに異るところがない。 それゆえ方今、 僧侶が壮麗なる殿堂を建設し、 紅紫こうし燦爛さんらんたる法服を纏い、 尊厳なる儀式を行うのも他の機関と同じく、 時代の進歩に伴うて発達する所以である。

かの曹洞宗の開山承陽しょうよう大師のごときは、 一生黒衣を纏うて質朴なる生活の模範を示し、 後嵯峨上皇よりわざと勅使まで立てて再度紫衣を賜ったが、 大師は

永平雖谷浅えいへいたにあさしといえども勅命重々々ちょくめいおもきじゅうじゅう却被猿鶴笑かえってえんかくにわらわる紫衣一老翁しえのいちろうおう

というて、 箱にしまうて身に付けられなかったにもかかわらず、 永平二十世宗奕禅師は、 時世の文化に伴う荘厳布教の機関として、 遂に色衣を許されたそうだが、 これを直ちに評して堕落せりと云うは、 宗教の発展性を知らざる頑冥固陋の言といわざるを得ない。

しかし宗教の実質から言えば、 現代の宗教が徒らに形式にはしるという非難の声を抑制することはできないが、 それも単に表面上の観察をもって、 直ちに形骸的宗教なりと断言するは、 あまりに皮相浅薄である。 予は斯くある所以ゆえんを究明せねばならん。

世間普通の極めて単純な人の考えでは、 宗教と言えば直ぐに寺院とか、 教会とか、 僧侶牧師とかいうものを連想して、 寺院や教会へ行って説教でも聴聞するとか、 もしくは仏様へ詣でもするのが真の宗教生活であるかのごとく信ぜられている。

しかし宗教そのものはかかるものでない。 社会全面の奥の方に行きわたっておるべきもので、 社会一切の機関はこの上に立って活動を遂ぐべきものである。 士農工商は各自不断に宗教的生活でなければならん。 それを寺院教会のみに宗教があるかのごとく考うるのは、 従来の宗教信者が寺院や僧侶を信じて、 肝腎の宗教そのものを信じない証拠である。

〔大正7年12月21日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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