暗涙を呑みながら
現在、 治警五条の改正の要は、 ひとり女性の上のみにとどまらぬ。 教育者、僧侶、神官そのいずれの階級においても、 まさに必然の機運に到達している。 敢えて要求によらずとも、むしろ自発的に改定すべきが当然の事ではないか。
元来、政治は決して
しかしその問題に対しても女性は頭から圏外に措かれている。
そんな境地に居て、
私は今参政権問題を持ち出して、
男性の無理解を批判しようとは思わない。
ただいずれはその権利をも獲得すべき前提として、
治警改正をすくなからず
しかるに何という苦々しさであろう。
提案説明の労をとった田淵氏の態度すら、
讀賣紙上
紫鉛筆子の伝うるところによれば、
しかしながら、 前に述べた男性側の政的方面における最後の権利獲得運動としての普選の主張が貫徹すると仮定したらば、 次に起るべき運動は婦人の参政権問題ならずして何があろう。
その意味において吾等女性はまずこれら新制度実施の下準備に取り懸らねばならぬ。 治警五条の改正を要求し、 女性が政事的結社に加入し、 あわせて政的会合の場所にも参集さるべく、 その権利を是認されようと期するのは正にその第一声である。
かくして吾等は政事的見聞の範囲を拡め、
その智識の向上を企図して、
普選実施後における国民の政的価値観念を是正すべく、
一面には幼者を教養するの基礎を築き、
国民の政治的向上を期し、 同時により善き第二国民の創造を待つには、 吾等母性の政治的覚醒が伴わずして何になろう。
それでもこの要求は否定されようとしている。
一体何の所以であろう?
殊に政治結社の宗家であり、政談演説の本源である議会の傍聴を公許しながら、
末枝末葉の問題を拒否することの、その大矛盾の甚だしさにおいては、
ほとんど諒解にも苦しみ
私はもうこの上、言う
〔大正9年8月2日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕