県下労資大観 (1)

慶應大学 福田良雄

私は県下企業家の労働者に対する処置につき何らの批判をも加えないつもりであったが、 私の友人である某新進の企業主から特に県下の労働状態を報告して下さったから、 これを披瀝し、 あわせて実地調査の結果知り得た事実を付加し、 『新愛知』紙面の割愛を願って発表する次第である。 門外漢の短見浅慮、 よく御叱声の労を執らるるならば幸甚である。

温情主義の立脚地

愛知県下の工場主対労働者の関係が一般に温情主義によって律せられている事は、 調査に先立って早稲田大学の北澤教授から御注意を受けたところである。 工場主自らは温情の前には解決する事のできない労働問題なしと信じている。 当局者とまた同じく、 新思想の瀰漫びまんに対しては極力反対するところであり、 労働組合に加入したり、 経済上のデモクラシイを主張する労働者ありとすれば、 それは彼らの所謂いわゆる産業の敵と見られる。 表面的には新思想の前にかぶとを脱いでいる彼らも、 裏面にはこれとしのぎを削っている。 さればこそ私ごとき青二才でも労働調査を行うと云えば、 恐るること過激派のごとくであったのだ。 然らば彼らの温情主義の内容如何いかん。 資本家は労働者の権利を主張させない代りに、 いかなる程度まで自分の義務を尊重し実行しているか。 資本家労働者間は深き牽連けんれん関係に立ち、 両者相離るべからざる親密な情誼をもって結ばれ、 中世ギルド組織に見るがごとき美しい温情きくすべきものがあり、 労働者はために不平不満ないしは職業上の不安なきか。 或いは工場主は憐れな労働者に同情して彼らの生活、健康、知識、境遇、地位等の安全と向上とを計って居るか。 これ私が僭越をも顧みず論評せんと欲するところである。

然らばくのごとき時代おくれの労働問題解決方法をひっさげて立たんとする県下工業の特質およびそれに照応する工業組織の特異性は何であるかといえば、 前者は繊維工業をもって主要工業とする点に存し、 後者は個人的小経営である事に由来する。 すなわち本年六月における工場法適用工場総数約一千六百戸中、 繊維工業に属するもの一千百五十戸、 職工総数九万九千余人中、 八万二千余人がこれに当り、 女工は総職工の八割を占めているという。 我国わがくに女工一般の風として未だ純然たる労働者——生涯一家経済の前線に立って働き、 自己の所得をもって一家を養うという者はまれであり、 ほとんど全部が嫁入前で、 労働者たるの自覚も規律もない。 またその組織も個人的小経営で、 特別工業を除外したる会社組織の工場数わずかに百五十、 資本金三十万円以上のもの五十である点より見れば、 未だ資本の集中という現象は甚だしきに至らず、 職工も約七割まで県内出身の者であるという関係上工場主と労働者は日常相識の間であって、 欧米に見るがごとき資本集中もなく、 血も涙も枯はてた利得一点張りの工場主は少数である。 だから我国一般、 殊に県下の工業には一種特別なる事情を有し、 労資間には我国独特の美風が濃厚であって、 階級闘争のごとき忌まわしき現象は起らない。 従っての自助的労働組合主義などを振りまわして、 温かきこと春の如き産業界を攪乱こうらんする不徳行為は、 我が国民たる精神を具有する者ならば大いに謹まなければならぬ。 これが温情主義者のって立つ根本の理由である。

〔大正9年10月1日 『新愛知』 5面〕

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