宗教と個性

土岐正雄

宗教とは一般に信仰の体系的統一主体をその内容とする。 しかして個々宗教の本質は何か。 私は信ずる—— それは人間の生きて行くという実相の意義と価値の総合的信念そのものである、と。

人間の信仰の発兆はっちょうは宗教をその端緒とする。 而して宗教の発芽は人生の苦悩を前提にする。 しかし私は、 私に仏教が存在しなかったならば、 私に信仰は発芽しなかったか。 否、私は仏教が私の信仰にあずかって力があり、 啓発の曙光であった事は認めるが、 仏教がもし無かったとしても、 私には必然、人間苦悩は免れなかった。 その人間苦悩は早晩私の前途に光明を認めさせずにはやまなかったであろう。

されば私は宗教の存在したことを絶大の喜悦とし、 創始者の慈悲に最上の感謝を捧げるとともに、 宗教の力のみが信仰の絶対原動力だとは信じない。 したがって私は宗教という既成的形殻があることによって眩惑され、 信仰の横道にそれたり、 信仰の迂路を辿る人のあることを恐れる。 仏教といいキリスト教といい、 あの既成された仏殿と聖堂のいかめしい形式と伝統に如何に多くの人々が脅威おどされ、 虐げられて、 純真な赤裸々の信仰を如何に硬化され形式付けられ、 非人間的なものにされたかを私は恐ろしく思う。

今や仏殿も聖堂も本然の崇高な香を失したために、 近代的民衆はその破壊に全力を挙げているのである。 仏教が未だに金ピカの偶像を安置して、 古い形式で信仰を強いるのはアナクロニズムでなくてなんであろう。 有形の偶像が破壊されて後、 真実の無形な偶像が民衆の信仰によって創造されねばならん。 もはや近代民衆は仏(神)を人間以外の位置に求めてはいない。 それは人間自身の中に仏を求めようと苦しんでいる。 外に求めて満足していたものが、 内に求めねば満足しなくなったのだ。

エックハルトは云った—— 「我らが神を見出し得ざるは我らが形を持たないものを形の中に求めようとするからだ。 人間の本質に触れれば神の本質に触れたのだ」と。 近代人は自分の本質を見出すことに苦心し、 本然に生きることに悩んでいる。

さて宗教と個性とどんな関係があるか。 それは、 私どもが宗教信念をいだくにあたって個性は必ず作用する。 個々の性格は性能の傾向を異にしているから、 信仰の道程も異にし、 信仰の主体も個々にする。

信仰は個性の泉から流れ出す苦悩によって味覚され、捕捉されるところの人間性の根本である。 個性が懊悩おうのうし探究する信仰の境地は決して今の時代にその老耄おいぼれの姿をのこしている既成宗教の一種強制的な形式と慣例の中には真に求めることができないのは明かである。 しかし私は仏教もキリスト教もその根本教義においては千古不朽の真理であることは疑うものでない。 ただ私の責めるのは時代精神の存するところを知らぬ現今の古き形骸に対してである。

私の崇敬すうけい仰慕ぎょうぼする祖師親鸞しんらん聖人しょうにんが、 仏を対他的の位置に求めて主我を没した没我的な信仰生活を送られたのは、 六百数十年前の時代精神に基調するものとしてむを得ないが、 師の信仰も詮ずるところは主我の仏性を認め、 敬虔な忍従謙譲の主我愛の信仰であったのである。 師は云った—— 「念仏をとりて信じ奉らんとも面々の御はからいなり」と。 個性力が信仰を得るに絶大の力あることを認めていた。 個性力の趨向すうこうはそれ独特の宗教境を開拓する。 これが真実だ。 これが近代人のすべてがいだく信教への道だ。

また師曰く、 「親鸞は弟子一人も持たず候、その故は我がはからいにて人に念仏を申させ候はばこそ弟子にても候はめ、 弥陀の御催しに与りて念仏申し候人を我が弟子と申すこと極めたる荒涼の事なり」と。 「弥陀の御催し」とは取りも直さず個性の発現だ。 それゆえに信仰は第一歩を個性に発する。

仏教にいう「宿善しゅくぜん」という文字の内容も個性力を指したものである。 宿善なきものは信仰がられない、 というのはつまり、 個性力の浅鈍せんどんなものは信仰の境地に切り込むことができないというのである。 しかく個性と宗教は密接な深い関係にある。 而して近代人の苦悩は古き形骸を破壊して、 新しい人間的な宗教の建設に蕩尽とうじんされつつあるのである。

主よ、汝の愛する者病めり!

〔大正9年11月15日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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