国民道徳の体系

寮佐吉

京大教授高瀬文学博士は、 愛知県会議事堂において一夜 「国民道徳について」 一場の通俗講演をせられた。 私は、失望したと云うよりは情けなくなった。 私の友人には憤慨して、席を立ったものが数名あった。 当夜、博士は冗談を言われたかもしれぬ。 けれども人格を離れた冗談は言えぬものである。 「国民道徳」が、 博士の説くようなものであるとするなら 「国民道徳」は、 私どもの国家にわざわいするものである。 博士の考えているような体系を 「国民道徳」 とするなら、 「国民道徳」は新日本の運命を担える青年から、 侮蔑を受けるものである。 祖国を愛する私の感情は、 久しくこれを黙過もっかするをゆるさない。 記し以て、 一は博士に覚醒を促し、 一は敬愛する青年男女諸君に一読を請わしめる。

博士は、 「地上に永遠の平和の来ない限り、戦争は絶えぬ。 だから国民道徳がいる」 という意味を述べられた。 何ぞ無理想の甚だしきや。 博士は、 支那哲学に没頭していて、 過去十年間に、 世界の心理的中心が、 どんなに移動しているかを御存じないと見える。 博士は、 悲しいドイツの運命を、 日本に味わわせようとしているのか。 キッドの遺著 Science of Power にもあるように、 ヨーロッパ文明は失敗している。 なぜなら彼らは、 ダーウィンの進化論を、 そのまま社会進化に応用したから、 彼らの文明は 「戦う文明」 を持ちきたしたのだ。 人間の歴史の上に咲いた変則の花がヨーロッパ文明であったのだ。 当然の結果たるヨーロッパ戦争において、 失敗せる文明の総勘定をしたのだ。 そして今、 彼らの文明が 「戦うこと」 よりほかに何一つ知らぬを自覚して、 しきりに東洋化!を翹望ぎょうぼうしているような次第であるように、 私には思える。

私は、「ただ戦うこと」を人間の理想とは、 どうしても思われない。 また私どもの国は、 平和を愛した国である。 愛するのである。 畏れ多いが明治大帝の御製ぎょせいにも 「四方の海 皆はらからと思う世に など波風の立ち騒ぐらん」 というがある。 平和は私どもの理想である。 世界に平和を来すべく努力したいのが、私どもの欲求である。 何ぞ今さらに誤ったる文明のてつを踏んで、 日本を世界の仲間はずれにしてよかろうぞ。 私どもの民族的血液たる大切な国民道徳存在の意義は、 どうしても明治大帝の五ヶ条の御誓文にもあるように、 天地の公道に求めたい。 裏長屋の小路こみちには求めたくない。 「けんか」をするためにいるのでなくて、 「仲よく」するためにいるのである。 「世界には平和を持ち来さねばならぬ。 真の平和は、個別の完成したる調和にある。 国民道徳は、ここに於ているのだ」 と私は言いたい。

理想のないところには退歩がある。 戦うよりほかに理想なきヨーロッパ文明は、 日に日に進歩して1914年に到った。 そして彼らは今やキッドの所謂「理想に対する感情」に目覚めんとしている。 私どもの国民道徳には当然、理想があるべきである。 しかるに博士は一時間有余(?)の講演に何らこの理想には言及しなかった。 不用意もまた甚しいと言わねばならぬ。

世上ありふれている 「国民道徳」 の学者たちは、 喜んでこの題目を扱うらしい。 けれども私は二者の間に何らの相関を認めぬ。 個人主義でも立派に家族制度は存在する。 当夜も、高瀬博士は脱線して、個人主義を独身主義とはきちがえて、 愚もまた甚しい例話を述べた。 集団主義 Collectivism に対する個人主義 Individualism が如何なるものかを少しでも考えるなら、 あほらしう家族制度などと対立せしむべきでない事が分る。 スチルネルの Ego and His Own を一読でもしたなら、 個人主義を「危険な勝手な主義」とは思えないであろう。 先に私は「独身主義」と言ったが、 独身者はあるが独身主義という主義のあるべきはずはなさそうである。

祖先は何でもかでも崇拝せねばならぬとしたら、 おかしなことになる。 道鏡という人の子孫は彼を崇拝せねばならぬか。 否、そうではあるまい。 偉い人は祖先でなくても崇拝すべきである。 私は「祖先愛慕」こそ人情の自然であると思う。 神社崇拝と祖先崇拝とはちがう。 神社崇拝には矛盾がないのは明白である。

宗教は精神的王国の至上存在である。 遍通自在である。 外部的事情に何らの束縛を受けないものである。 国家の存在を危うくするようなものは真個の宗教でない。 邪教である。 仏教にせよ、キリスト教にせよ、その原始においては個人の精神の救いであった。 個人は救われて、 個人の集団たる国家が危うくなる道理がどこにある。 また、ある一派の宗教のデモ信者を増加するために、 小刀細工をする必要が宗教のどこにある。 博士はこの宗教の本質を体得していないと見えて、 「宗教をひろめようと思ったら日本化すべきである」 という意味を言った。 それは真個の宗教ではなくて、デモ宗教である。 デモ宗教を骨を折って弘める必要は少しもない。 けれども私ども国民は、真個の宗教的国民でありたいのであり、 またあらねばならぬ。

国民道徳はまことの泉から生れるものである。 明治大帝の御製にも 「目に見えぬ神の心に適うこそ、人の心のまことなるらん」 とある。 まことは 「理想に対する感情」の湧き出づる泉である。 まことこそ私どもの国民道徳のモットーであり、 またあらねばならぬ。 まことを疑わさせる博士の一例話にまで立ち入るは酷かもしれぬが、 「下宿を出るにあたり、 外国のオールド・ミスが泣いたから、 私も泣いた」とは何たる言ぞ。 オールド・ミスの泣いたのはまこと Sincerity の泉からである。 私どもは私どもの同胞に 「人が泣くから、泣く——おつきあいに」 泣くような人のあるを赤面し、また悲しむ。

〔大正9年11月17日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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