くるしみ (1)

濱阪葉子

悠々先生、 「弱き者よ、なんじの名は女なり」 と昔の人は申しましたが、 「果して女は弱いものか。 女という字は弱いという意味であるというのは余りに無態すぎる」 と一頃は私もよく反抗してみましたが、 よくよく考えてみれば、女は弱いものでございます。 大正の今日、依然として私どもは弱いものでございます。

悠々先生、B子は某大会社の支配人Aの最初の戸籍上の妻でございます。 信州のかなりの財産家の長女に生れた彼女は、 村の高等小学をえると、 行儀見習いという名のもとに、 帝都の某紳商の家庭へ預けられました。 Aの父親は名だたる旧家の一人息子でございました。 取巻連に誘われて、朔日ついたち臘日みそかより我が家の畳は踏まぬという遊蕩児でした。 その父の子に生れたAは、 慶応の普通部を出た頃はもう立派な冶郎やろうでした。 しかし頭のいい彼は、何らの渋滞も見ず、理財科を卒業しましたが、 長男であるAは当然、父祖の業を継がねばなりません。 けれども旧式な問屋の店に座らせられるべく、余りに彼は新し過ぎていました。 彼は鋼鉄業という父の職業を嫌いました。 彦左衛門ひこざえもん式の老番頭を煙たく思う若い彼は、 自己の志望する会社へ就職を乞うてやみませんでした。 頑として父は許しません。 悶々もんもんの情を抱いた彼は、乃父だいふしのぐほど、駄々羅だだら遊びをきわめました。 酔乱狂態のAの眼にゆくりなく入ったのは、B子のつくろわぬつぼみの姿でございました。 学友の家に可憐の様子を見出したAの歓喜は、人の疑うほど熱烈なものでした。 狭斜の花に飽いた彼のひとみに、つくろわねど香り床しき谷間の姫百合は、こよなくいとしく思われましたでしょう。

悠々先生、 可憐の蕾は幾多の曲折波瀾きょくせつはらんの末、帝都に連綿れんめんと打ち続く大身代だいしんだいの奥庭に移し植えられました。 一にもB子、二にも我が妻B子はAのためになくてはならぬものになりました。 いつもながらに多感の我が子の狂態を無言のまま黙視しておったAの父は、 このとき突如年来の希望を許しました。 初志の貫徹されたAの満足、恋の成就の歓喜、行く雲も足を止めて祝い歌うかと思わるる歓楽の幾年、 黒谷の別邸の四年の歳月は、 薄倖のB子のためには、再び来ぬ喜びの春でございました。

悠々先生、 悪魔の悪戯の骸というものは、神の骸より以上、我々に向ってしげく投げられます。 老妓Cの出現によって、平和の家庭は根柢から覆されました。 薄倖なるB子、 老妓CはAの遂げられなかった初恋人、あえて玉の緒を自らたって、谷中の墓地に一人淋しく眠っている恋人の面影をもっておりました。 去る者は日々にうとくなる現世に、その思い出ばかりは年ごとに濃くなりまさって、 長女S子の誕生を見ても、ともすればありし日の花の顔はAの眼底に浮び出でます。 不幸なるB子、そんな因縁の老妓Cに、田舎出の彼女が敵しようはずはありません。 さらぬだに、野の花の単純さに欠伸あくびをしかけたAは、またたくまにCの捕虜になって、CはAの命の糧でした。

悠々先生、ひとたび奔馬の逸するや、常人のよく留め得べきでありません。 B子は家も夫も愛子もCにとられてしまいました。 それでも一年近く、我が子いとしさに、邪慳じゃけんな夫の家に名ばかりの妻として辛棒しんぼうして居りましたが、 ついに己の敵しがたいのを知って、信州の父のもとに逃げかえってしまいました。 訥朴とつぼくなB子の父も、 あまりのことに胸を納めかねて、父はただちに離婚を申し込みました。 ところがAの父が頑として許しません。 捨てませぬと言って貰った大事な嫁だ、おれの目玉の黒いうちは約束を反古にせぬ、と言うのです。 S子もじきに手許に引きとって、 B子のもとへは月々少からぬ金額を慰謝料として送ります。

こうして十一年の歳月は重なりました。 B子は三十一になり、両親は相次いで長逝したので、弟夫婦が家督をつぎました。 S子も十三になりましたが、母も子も十一年前生別したまま生ける面影を互いに知りません。 B子は戸籍上では立派なAの妻です。 事実から言えば、Cが公然のAの妻ですけれども、 B子というものが除籍されない限り、 Cは名実ともにAの妻になることは許されません。

悠々先生、 何という矛盾でございましょう。 何という悲劇でございましょう。 B子はなるほどAの生家の貢ぎによって、物質には何の不自由も致しません。 舅の心尽しは、田舎に居りながらB子はAの妻であった折のような服装をし、 弟の子供たちへのお小遣いも欠かしはしませんが、 果して彼女にはそれが楽園と言われましょうか。 法律という重苦しい鎖は可憐な彼女の自由を束縛して、 生きながら彼女は葬られているのでございます。

〔大正9年11月19日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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