新マルサス主義

東京 濱島覺成

桐生先生足下。 「日本の思想界は未だ遊牧の民と同様だ」 と某氏は語ったが、 考えれば、それも幾分は首肯し得らるる言である。 一つの所で或る思想が唱えらるると、 猫も杓子もそれを唱える。 ちょうど一本の木の実を一匹の猿が見つけると 一群の猿が我れも我れもと飛んで行くと同様で、 自分が鱈腹たらふく食えないのみか、 後から来た連中は、わずかにその声を聞くのみにとどまるのである。 かつて思想界を攪乱こうらんせしめたマルクスやクロポトキンは、今や学界において、それを唱うる者ほとんど無く、 みな新マルサス主義、換言すれば人工避妊論に走っている。 帝大や早大あたりの教授がこれを見付けると、学生や記者なんどが先を争ってこれに蝟集いしゅうするのは、 我が日本でなければ見えない奇現象である。 何ぞ知らん、その説は、二千数百年前にスパルタ武士に行なわれた優生学の焼き直しであろうとは。

しかり、私はマルサスの人口論をもって金科玉条のごとく崇め尊ばないまでも、 その論に一面の真理を認め得るものである。 人口論全部が真実ではないにしても、 その云い表さんとする大体の事柄には、目前に証明し得る、立派な証拠が挙っている。 私はこれについて、現今政治家の中に 「国家の隆盛は土地と人口との大きく多くなる事に存する」 などと云うような説には賛成することはできぬ。 また文明の意義、開化の理由が、人口の増殖にあるなどという事は断じて信ず能わざる事柄であると同様に、 人口の増加は富や幸福を作るものではない。

桐生先生足下。 私は人口の増加をもってマルサスのごとく悪傾向だと断ずることができないまでも、 あまり多すぎるのは、その結果は善くないということを首肯するものである。 殊に、俗に 「貧乏人の子沢山」 という現象に対して、大いに考えさせざるを得ないのである。 かくして貧者はますます貧に、富者は子を産むこと少く、 優生なる人間が多くは晩婚して、 その子孫を減少せしむることが、優生学の趣旨に反するものである。 しかし、私は新マルサス主義を説く人たちが、 その方法を明示し得ないで、 漫然たる概念のみを説いているのを悲しむ。 れ論者は、 白耳義ベルジュームの堕胎病院の事実を説く。 事実はそれで善いとしても、立派な親子が果して立派であろうか。 貧乏人の子が果して無智であろうか。 一人息子が果して立派な丈夫な人間と成り得らるるであろうか。 ないしは子供の時に悧巧な子供が成長して智者となり、学者と成り得らるるであろうか。 社会の万般のヘノメノンを観察してみるに、 その中に、如何に矛盾多く、撞着多きかは、何人も是認する所である。

桐生先生足下、足下は常にマルサスの論を推賞していられた。 私も足下の説に賛成すると同時に、 マルサスの人口論を是認した。 ダルウィンは自然淘汰により、 ショペンハウエルは禁慾生活により、 しかしてマルサスは二種の制限 (予防的と事後的との) によって、 人口と食物との調和を図れ、 また図り得ることができると説いた。 而して新マルサス主義者らは、 人工のみによって調和せよ、 すなわちマルサスの予防的の中の避妊と事後的の中の堕胎によって、 すなわち彼の説く諸種の障害中、わずかに人工中の二者によってのみこれを制限せようとするのである。 しかも私は、果してそれが優生学と何の関係ありや、と云わざるをえない。 彼ら論者はただ枝に向ってはさみを入れているのみである。 その根本原因、すなわち病身者を多く作り、貧者に子供の多い理由、ないし貧富ますます隔絶して、生活逼迫し、自然に優生なる智的労働者の子孫を絶滅せんとしている原因や、私娼公娼のなおかつ跡を絶つ能わざる理由を究め得ず、 説き得ざるを悲しむのである。 要するに、新マルサス主義は不安なる生活、誤られたる文明の枝を切らんとしているに過ぎない。 その根は依然として深く社会制度に胚胎している。 かかる枝葉の問題を唱うることをやめて、 現社会制度、社会組織を矯正して、もって人間の本能と理智の合一を策し、貧者と富者に同一の享楽をなさしめ、 各人あいたすけて、 完全なる人類共同生活の本旨を発揮せしめんことを研究したがよかろうと思う。

〔大正9年12月6日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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