文化階級の運命 (一)
経済学説改造の時代
小林橘川
科学としての近世経済学が、その社会的活動に関する法則を、全く社会的愛情の力とは無関係に定め得られるものだと考えたことは最も奇怪なる、且つ最も名誉ならざる謬想であるとラスキンは指摘している。
ラスキンのいわゆるソアディザン(自称)経済学者として排斥するところのこれらの経済学者は、すなわち今日の唯物的経済学者であって、
アダム・スミスの資本主義経済学も、マルクス派の社会主義経済学も、一列にラスキンの痛罵の前に立つべき科学的唯物的経済学なのである。
資本主義経済学も、社会主義経済学も、その点では人間生活の真義を没了しているものといわねばならぬ。
唯物史観の上に立てる経済学は、かくして唯心史観の上に転向し来らねばならぬ運命をもつのである。
マルクス派の科学的社会主義が下火になって、
コール、
ペンテー、
ホブソン等の主観的社会主義学説の擡頭しつつあるは、それがためである。
世界改造は吾国にありては空想的、哲学的、理論的改造である。
欧州における改造は Reconstruction といい、
Remaking といい、
Rebuilding といい、
いずれも破壊の後に来るところの再造事業を指すに外ならない。
欧州人にとりては
「世界の改造」
は即ち
「欧州の改造」
を意味する。
白人の尊大倨傲なる
「世界」
は
「欧州」
と同一義であり、
「欧州」
は即ち
「世界」
と同一範囲を意味する。
この故に彼らの世界改造は畢竟、
欧州の戦後恢復事業にすぎない。
いうまでもなく欧州各国は過ぐる五箇年間の大戦争のため、
あらゆるものを破壊された。
彼らの政治も経済も学問も道徳も悉く破壊の大斧鉞を受けざるものはない。
一夫一婦の家庭生活すら成り立たなくなっている。
人倫生活の単位すら脅威を蒙らざるを得なくなっている。
古往今来、かくのごとき一大残虐なる破壊を受けたる事実は、
かつて有り得ないと思われる。
すなわち欧州各国はかかる残虐なる破壊の下より、新しき国家を創建しなければならぬ。
彼らの世界改造は実に文字通りの世界の立て直しである。
そしてそれは決して誇張でも、空想でも、はたまた理想でも何でもない。
現実そのままの意味において世界の改造が要求されているのである。
欧州の改造問題はかくのごとく現実の必然必至の問題であるが、
吾等日本国民にとりては、
それは理想の問題であり、
哲学的、理論的問題である。
何となれば日本国および日本国民にとりて、今度の欧州戦争は何らの破壊を蒙ることがなく、
むしろ物質的には未曽有の富を拾い儲けたのである。
精神的にも物質的にも破壊を受けなかった日本国民にとりて、
「世界の改造」
というも、それは到底現実的なる悲痛の叫びとはなり得ない。
この故に吾国における改造論は現実的色彩が極めて稀薄で、
ただ思想的、哲学的改造論たるにとどまっている。
言い換うれば、欧州の改造論は多数民衆の現実的要求の上に立っているに反し、
吾国の改造論は、知識階級一流の模傚的改造論で、したがってそれは知識階級心理を如実に示すところの哲学的思想的改造論の域に彷徨せざるをえない。
〔大正9年12月『太陽』 26巻14号137〜138頁〕