零時日記

釋迢空

大ざっぱな話をしたがる人は、 「日本人ほど宗教心のない民族はない」 と言う。 しかし、それが果してどれほどの帰納の手続きをんでせられた発言かはおぼつかない。 わりあいにすなおな国民は、 「日本人ほど楽観的国民はない」 と言えば、 「そうですか」 と納得する。 「日本人くらい血性風な国民はあるまい」 と言うと、 「そうでしょうとも」 と賛成する。 国民性を論ずる人も、 論ぜられる対象も、 今の日本人以外に出ないが故に、 議事は着々進行する。 こう言う場合、 いつでも論者自身とその時代の省察が基礎になるので、 いわば自脈をとるようなものである。 けれども昔の事になると、 自分の概念にぴったり当てはまる材料の十や二十があっても、 同数あるいは以上の反証もあがってくることの覚悟が必要である。

歴史は、論理で規定することは出来ない。 歴史批評に概念をふりまわす人は、 どこまで行っても、演繹えんえきを続けているばかりである。 歴史は常に、 そんな批評とは没交渉に、 やにさがって 居るであろう。 私どもの国の歴史は、 そのうえ、 国民全体の歴史でなかった、 という困った根本問題さえ持っているのである。 公の記録ばかりでは、 職員録や戦記風なくわしみはあっても、 山がつや小田のますらおの内外の生活をうかがうに足るようなもののありようがない。 宮人と鄙人とが、 どんな細部までも、 等しい理法に一貫せられて生きていた、 と平気な顔で言う人は、 概念の威力をたのみ過ぎている迷信家である。

宗教心がなくても安心して暮して行けるのは、 今の世の学者先生自身ばかりである。 どんな脅しに対しても保障してくれている権力が控えており、 学問その他の色々なげ路を持っている幸福な人々に、 どんな神が奇蹟きせきを現すことが出来るだろう。 針のみぞを駱駝らくだに通らせる者は、 金持ちの外に今の世の学者を加えてもよい。 今もなお慰められない霊が国の中に充ちていることは、 書斎の瞑想から出ると汽車や車が待っているのでは、 知れようはずがないのである。

たくさんの辺土へんど順礼じゅんれいの大方は、 遺言も出来ぬ旅で死んだ。 枯れ野の夢を見るだけのゆとりもない心が、 生きた時のままで、 野山に迷うている。 遊び半分に出て札所をすませば戻る者の方が多いのだと思うては違う。 平野の国から、もっと山また山の奥在所にみ入って見るがよい。 到るところの崖や原に、 柴を投げる場所があって、 そこに果ての歩みにいきついた行者・順礼・高野聖などの、 名も知られずに消えて行った行路死者の記憶を留めている。 村人たちは、その友びきを恐れてこうするのだ、 と言う旅に死んだ者が、 それが尋常の病いであっても、 変死人に扱われがちであった。

私はそういう道の隅々にたたずんで、 白い着物の男女なんにょの後姿を目にした杖のさきや、 鈴の音の耳に響くを感じた。

しかし、そんな消極風な遺跡ばかりも残っていなかった。 少し峰の形の変った嶽とか、 谷深くとりまわした峰などには、 たいてい行者が籠っていた。 まだ新しい記憶らしい色あいを持った形で、 山家の村には語られている。 一山を開いて多くの信者をび上せたのも、 おのれ一人の行場として、 そのに入定にゅうじょうするようになったのも、 今日、 私どものアルペンステッキのわずかに通うようになったどの峰でも、 かならず一度は経た歴史なのである。

祖先の記録をれたもので、 将来、 民間伝承学者の大きな領分になるだろうと思われる、 漂浪布教者の長い歴史の連続がある日ノくま・八幡などは、 歴史にもおもかげ辿たどられる。 辿りきれぬ有史以前にも、 彼らの足痕あしあとみ出ているのである。

忘れたことは、なかったことではない。 自分のするような事でなくば、 人もするはずがない、 ときめて居られては困る。 野山の歴史は長い。 語部かたりべも語り落した何千年があるのである。

初出: 『國學院雜誌』 大正10年1月号71〜72頁。 『折口信夫全集 第廿八卷』 (昭和43年 中央公論社刊) 16〜19頁に再録。

目次へ戻る