菊池氏の国民道徳観を読みて (上)

柴田生

水戸中学校長菊池謙次郎氏が国民道徳に関する講演を昨年十月、県教育会の席上において、またそれと同一内容の講演を本年の二月に十日会の席上においてなしたるところ、はしなくも大問題を惹起し、菊池氏の辞職となり、学生の同盟休校となり、今なお菊池氏擁護の講演会が開かれつつあるという有様である。

私は初めからこの問題に対して多大の注意と興味とを持っていた。 なんとなれば私は常から国民道徳に対して幾多の疑問を有していたからである。 この事件は学生の同盟休校以来、日ごとの新聞紙に報道されておったが、それによって菊池氏の国民道徳に関する講演の内容を十分に知ることはできなかった。 私は水戸の神官連が自家擁護のため菊池校長を国賊呼ばわりしたり、政党関係上より菊池氏を排斥攻撃し、ついに辞職のやむなきに到らしめた事や、学生の同盟休校事件等に対しては大した興味を持っていない。 ただ、かくのごとき問題を惹き起すにいたった講演の内容について甚大の興味を感じていた。 ところが今回、新光社発行の『国民道徳と個人道徳』なる一小冊子によって私の望みは達せられ、菊池氏の講演筆記、その講演に対する弁明書、および釈明演説の筆記に接することができたが、私はそれを一読して失望せざるを得なかった。

菊池氏を国賊と呼ばわり、国体破壊者となす人々の愚は、もとより論ずるまでもないことであるが、私は菊池氏の国民道徳観に対しても賛成することはできないものである。 菊池氏は釈明演説中にこう言うておる—— 「中等教員の検定試験には何学科によらず国民道徳を受験しなければならぬ。 故に受験者はこぞって諸博士の国民道徳に関する著述を研究しておるようであるが、これら受験者はすべて諸博士の説に不満を抱き、国民道徳に対して深い疑問を有している。 で、私は諸博士の説に批評を加えて、これら受験者の参考に資したい考えである」 と。 私も菊池氏のいわゆる諸博士の説に満足することのできない一人である。 ゆえに菊池氏の説に多くの注意を払っていたものである。 ところが菊池氏の講演を一読して失望した。 その失望は諸博士の国民道徳観に対する不満より、より大なるものであったのである。 しかし私は決して菊池氏の説を危険視し、国体を危うくするものとなす一部論者とは全く見解を異にし、むしろ同氏に対しては好意と同情とを有するものであることを断っておく。

私はここに菊池氏の講演筆記と弁明書と釈明演説の筆記とを通じて、菊池氏の国民道徳観に対して私見を述べてみることとする。 菊池氏の講演の大要はこうである—— 「諸博士 (同氏が諸博士と称するは井上、吉田熊、八束等の博士をさすもののごとし) の国民道徳の骨子と称するは、祖先崇拝、家族制度、忠孝一致、武士道等なるも、これらの道徳および思想は决してわが国のみの特有にあらず、欧州諸国にもこれと大同小異なる道徳および思想は存在している。 ゆえにこれらをもって国民道徳の骨子なりとなす諸博士の説は論拠まったくなきものにして、ただわが国の特殊なる道は一あるのみ、そは万世一系なること、それなり」 と述べ、さらに蓄妾の可否、犠牲の精神等についても一言している。

右によれば、菊池氏は 「国民道徳とはその国民に特有なる道徳をいう」 と諸博士が定義しておるがごとく解されているようであるが、諸博士の説は必ずしもそうではない。 いま学者間における定説は、国民として行うところの道徳はすべて国民道徳なりというのである。 この点において菊池氏は第一の誤解に陥っている。

〔大正10年3月12日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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