流行語

知多郡 鈴木徳成

社会奉仕の模範人物のような顔して、献身を振りまいて、人を欺き、世を盲にし、おまけに自分の心——人間の本質たるところを圧している馬鹿者が多い。 その社会奉仕の仮面者を褒める馬鹿も存外ある。 その社会奉仕の出来る者なら、 「あの村をあれだけにしてやったのは己れの力だ」 とか、 「あの人間は間に合わぬ人間であるが、 己れがどうぞこうぞの人間にしてやったのだ」 とか言えるはずがない。 社会奉仕の仮面をもって寄付をねだり、 社会奉仕の看板で団体や会を創設して、その創設者は己れだといったような顔をしている奴がある。

社会奉仕の必要を、社会奉仕をするほど力もなく余裕のないものにまで要求しすぎるから、 それを利用して己れの武器とする輩が多くなるのだ。 実行の出来そうもないものにまで要求するから形式となり、 果てはそれを利用して己れの栄達を助けることになるのだ。 社会奉仕の真の意味も知らずに、またその意味を説きもせずに、 ただ言葉の上で社会奉仕を仮面して、 流行的に絶叫せられ、 悪利用せられるのだ。

流行語の多いことを見よ。 自由だ、平等だと…… それがどんなことだとも知らずに、男女長幼の区別なく、気分的に、集合団体の力を借りて騒ぎ廻っている。 騒ぐわりに具体的成果の上らぬのは流行語なる証拠であるのだ。

自覚だなぞといっている奴ほど自覚の足らぬことが往々あるのだ。 「あなたはまだ自覚が足りませぬ……」 なぞと人に教えている人が存外、自身のことになると迷っているのだ。 愛だなぞと叫んでも、愛を人に施せ施せといっている人は、 愛を自分が人に施すのでなく、 人が自分に愛をもって接せよとのみ、片務的に要求していることが多い。 親切も同情も必要だ、大切だというのは、己れが人に親切同情をもって接するのでなく、 己れへ他人が接するときにかくあれという意味であることの方が多いのだ。

前にも述べた通り、献身も犠牲も、論ずるときには大声であるが、 それが実行、具体的効果の上る場合になると、「他人なせ」という意味である。 自ら叫んで、実際の場合にそれをなすことは少い。 各自、静かなところで考えてみるがよい。 流行語が多い。 仮面が多い。 自己の実力を養成するとて、自己のために修養を叫んでいて、社会奉仕なぞ口にせぬ人の方が、存外社会に奉仕している。 口先だけでも美しい語をならべたてた人の方が世からもて、 自己修養を地味にしていて、 社会奉仕を叫ばぬものは我利だなぞと擯斥ひんせきせられたり、妨害せられたりする世の中だ。

口で実行主義を称えている人は、 自己の力不足して他人から批評せられた場合、 「空理空論をやめて実行したまえ」 と撃退せしめるときの武器だ。 実行主義を振りまわして、理論に合わぬ行動をして評せられたときに逃げるのだ。 是が非でも動いたり、飛んで歩いたりすりゃよいと思っている。 なるほど実行主義には相違ないが、真の実行はそんなものではないぞ。

流行語の多いことを何人も考えるがよい。 流行語を利用する人、 流行語に迷わされて褒めたり、助力したりする人、 世の中は様々じゃて。 見よ、近頃はデモクラシーと言う者は少くなったに。 あれが流行語の標本だ。 今ごろデモクラシーなぞ言うと、 「そりゃ古いよ君」 とすぐやられてしまうぞ。 流行語でなかったら、古いも新しいもない。 いつ論じたとて、叫んだとてよいではないか。 もっと真剣でなくてはならぬ。 世のためにも、自分のためにも。

〔大正10年3月12日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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