労資協調会に対する所感と希望 (一)

橘川生

財団法人労資協調会の理事添田敬一郎氏が慈友会の講演のため名古屋へ来たついでをもって、一夕、市内各方面の人士を名古屋ホテルに招いて労資協調会の趣旨および事業の一般を説明したのは、すでに新聞紙の雑報子の報ずる通りである。 私は当夜その席に招かれて、添田氏から比較的詳細にその説明を聴取したる一人である。 私はその夜ただちに添田氏に対して自分の所見を開陳するのを至当と信じたものであるが、私一個の私見のために他の多くの列席者に迷惑 (それはその夜、時間が大分遅かったため) をかけても相済あいすまぬという感じもあり、失礼な申し分であるが、一般の来会者にはそうした問題に深い興味と熱心とをもっているとも思われなかったので、私は敢て沈黙の礼譲れいじょうを守った次第である——こうした場合、沈黙の礼譲は主客両者の社交的空気をみださないので、かえって好都合に運ぶものであることを知っていたから。

しかし私の労資協調会に対する成立当初からの感じは、添田理事の説明を聞いて、ますます過っていないことを発見した。 やっぱり労資協調会なるものは、世間でも定評のある通り、微温的びおんてきな、曖昧あいまいな、そして当然考うべきことを考えないでいるような性質の会であることが明かにされた。 これを遺憾いかんとする感じは、添田氏の説明を聞くとともにますます強くなってきた。 しかし協調会のいまっているような趣旨と、行っているような事業とが、決して無益であると云うのではない。 広い社会生活の社会現象に対応するためには、労資協調会のごとき性質の事業の一つや二つあっても、それは不必要でも不利益でも何でもない。 むしろそういう事業の多からんことを望むものであるが、労働問題の解決が、同会の考えているような趣旨と、いま為しつつあるような事業とで解決されるものだと独断することは危険この上もないことである。 前の意味で私は労資協調会の存在を祝福し、後の意味では私は労資協調会の態度を改められんことを希望する。

労資協調会は一言にして尽せば、温情主義的社会政策をとっているようである。 温情主義という言葉で批評されることは、協調会の意外とするところであろうが、結局同会の趣旨は温情主義に尽きている。 添田氏は 「労働問題は結局人の問題で而してそれは教化の問題である」 という。 私もそれは充分に認める。 しかしながら人の問題であるがゆえに教化と修養とで労働問題が解決するとのみ考えるのは余りに馬鹿らしい独断である。 なるほど教化の問題が労働問題解決の一面であることには疑問がない。 私どももその意味において、労働者の教化問題を取扱いつつある。 けれどもそれはただ一面であって、全面ではない。

添田氏は協調会の事業として、 労働状態の調査労働者の生計調査を行っていると説明した。 それも必要である。 また添田氏は労働会館の新設隣保館の建設労働者の家庭訪問部設置雑誌発行講演公開失業者の職業紹介などをその事業として行うということである。 それらはいずれも社会事業としての必要なる仕事である。 しかし問題はそれだけで充分ではない。 もしこれだけの事業だけで労働問題の解決がつくと考えているならば、それは畢竟ひっきょう、免れ難き温情主義的、ブルジョア的常套思想によるものである。 私の協調会に対する不満はそこにある。 私は次にそれを明かに指示するであろう。

〔大正10年4月2日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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