世界のなげき (一)

日本よ、お前は何処へ行く

十日 足尾山中にて

小林橘川

さまよえる日本よ、お前はいま何処いづこへ行こうとするのか。 私は今、お前の姿をはっきりと見つめたいために、そしてお前が何処いづこへ行こうとするかを見定めたいために、ここへ来たのだ。

英国の炭鉱夫、運輸業者、鉄道従業員のいわゆる三角同盟は、いよいよ12日夜半より総同盟罷業を行うことになった。 私は英国の炭鉱夫たちのストライキを見るかわりに、足尾のストライキを見るべくここへ来た。 そして世界のなげきが、足尾の山中にもかすかながらに動いている姿を見ようとしたのだ。

海抜1200尺の上毛の高原、渡良瀬河の奥ふかき谷間に横たわるところの静かな足尾の街よ、世界のさけびが、今こそここに期せずして表われたのである。 さまよえる日本が、久しい漂浪さすらいの旅に上って、何処どこへ行こうとするかを知らない時に、突兀とっこつとしてそびゆる足尾の地下何千尺の坑内からゾロゾロとありのごとくに地上にい出して来た六千の鉱夫によりて、さまよえる日本の行く手が暗示されむとするのである。 そして世界のなげきが、やはり日本のなげきであり、彼ら鉱夫のなげきが、また吾等のなげきであることを、はっきりと見きわめねばならぬ時が来たのだ。

私はこの三日間、東京に開かれたる東亜記者大会に出席すべき用務をびて東上しつつあったのである。 しかし形式的なる、無内容なる、無省察なる陳套ちんとうなこの大会からは何物をも獲ることができなかった。 もとよりある点まで、それは充分承知の上で出かけたのであるが、今度は支那の記者たちが五十余名一団として参加し、いわゆる東亜記者大会なるものを開いたこととて、強いて多少の意義を附与し、そこから何ものかを発見すべく努めたものである。 しかも一言にして尽くせば、空々寂々くうくうじゃくじゃく、支那の記者諸君の中からも、何らの穫る所はなかった。 ただもしありとせば、それは一の三宅雪嶺せつれい博士の講演のみである。

雪嶺博士の意見は別に紹介し、批評する機会があろう。 私は大会の第一日にすでに失望し、第二日の支那記者側の演説に失望した。 そして歌舞伎座に「日本一」ぞろいの名優、仁左衛門、羽左衛門、左團次、我童等を集めたる忠臣蔵の一幕にわけもなく泣かされたものであった。 仁左や羽左諸君の藝術に泣いた涙のその夜、足尾銅山不穏の記事を見たとき、私は思わずハッと胸を突かれざるを得なかった。 私は甘い忠臣蔵の涙から覚めて、現実の世界のなげきに胸を撃たれた。

私は第三日の大会のプログラムの一切を捨てて、而して「宮城拝観」というかたじけない、再び容易に得難い拝観の光栄をもなげうって、私は足尾に急行した。 私はこうして思いをかけず足尾山の中へ入った。

日光、赤城、妙義の山々が、春というのに、まだ雪を頂いている。 関東八州の平野、それは雑木林の並びつづく新鮮なる野外の光景が、東北本線から、両毛線、足尾線と、七日間の私の汽車の旅を慰めてくれたものだ。

桐生から、その足尾線は、渡良瀬河に沿うて二時間半の淋しい鉄路がつづいている。 それが世界のなげき日本のなげきとを連絡するところのただ一つの交通線路である。

私が足尾の街を汽車の窓から見下した刹那せつなの感じは、その「悲痛」は「生活」、「労働」、「貧困」などというモーダニズムのすべてを一目のもとに展開しているようなこの街に対する私の偽わらざる刹那の感想である。

さまよえる日本よ、お前は何処どこへ行くのだ。 どこへ行こうとするのだ。 私はいま足尾山中の淋しい街に立って、かく思いつづけているのだ。

〔大正10年4月12日 『名古屋新聞』 2面〕

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