宣伝

水野昌蔵

自分は筆を持つのが本職でない。しかし既に持ったのだ、又これからも持ちたいのだ。利己心からでない、ただ真理を完全に保全しようという一念から。

既に予は言った、マルクス学説の紹介者に二模型あり、と。双方共に偏見妄想に捕われの身となっているものだ。一つはその人物を毛嫌いして、彼が主張する説すべてを非なり、偽なりと独断する。また他の一つは、主義そのものの奴隷となって、彼の論ずること総てを一点の非も無い真理なり、と丸呑みし、三千頁の資本論と、百三十頁のエンゲルスの社会主義論とを混同するに至るほどまでに心酔し過ぎる徒輩である。

模型第一は、マルクスの資本論を読まずして、彼の経済学説を非難攻撃する。模型第二は、マルクスの著書を一つも読まずして、彼の唯物史観を論じ、経済論を論じ立てる。哲学も経済学も未だかつて少しも研究せずに、哲学の理論と経済学の理論とを混同し、純粋の経済学教科書なるマルクスの資本論の中に、彼の哲学唯物史観を理論的に通読了解したと申立てる。経済学の価値と哲学の価値とは同一義ならざることを気付かずして、経済学の定義を与うるに、哲学の定義と思われる定義を下す。

自分は近時しばしば耳にすることがある――「社会主義は僭越なる物だ、軽薄なる物だ」と云うことを。むべなるかな宜なるかな!社会主義の紹介者にかくのごとき二模型ある以上、これは当然のことだ。さもあるべきことだ。

諸君は乗り越えなければならぬ、打ち破って進まなければならぬ、妄想を、誘惑を、偏見を、虚偽を。頭の古い人々は、ややともすると、ここ五十年前に流行した支那製の形容詞の多い文章に惑わされがちである。今や一大転換期の中に必然の運命を待っている諸君は、どこまでも冷静でなければならぬ。感情を理性で制しなければならぬ。そして諸君が要求し、獲得せねばならぬものは、感情に走った形容詞でなく、真理であらねばならぬ。ドグマの奴隷となってはならない。生きたる真理を把持せなければならぬ。

諸君は余りに自己緊張の極点に達してはならない。この極点には往々にして恐しい自己疑惑が待設まちもうけている。前に述べた二模型の輩もこの極点にいるものである。諸君は西洋かぶれをしてはならない。しかし世界の大勢に順応し同化し得るだけの展性溶解性をっていることは必要である。殊に新しき文化に生きんと欲する人々には欠くべからざることである。

自分は真理を宣伝したい。これは私として過分な欲求であると見られるかもしれない。がしかし、この欲求を済充さいじゅうするのプロセスに這入りたい。その第一階梯として、今私は、先日来死去説の伝わっている公爵にして、しかも無政府主義者なるクロポトキンの講演を翻訳している。出来上って、もし発表し得たならば公平なる御批評を賜りたい。(1921・2・8)

〔大正10年4月14日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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