貧民窟 (上)

三河足助 巴水生

貧民窟視察

悲惨な貧民窟で、 あるがままの貧民の実状を穿うかがってみたいという要求に満たされて、 このごろ貧民窟への旅に上りまして、 東京から神戸へ、 神戸から大阪の、 最も悲惨な貧民窟を朝から夜まで歩きまわりまして、 貧乏の如何につらいものであるかということをつくづく思いましたが、 その貧乏が精神生活に及ぼす影響を考え、 また目撃すると、 実に筆にも口にも述べ得ない惨憺さんたんなもので、 貧民窟の哀史をひもとくと共に何だかランプレヒトやマルクスの所説が 「ほんとうじゃないか知らん」 と釣り込まれそうである。 貧民窟で得たものを私だけで秘めておくのも惜しいような心持ちがするのでザット書いてみたい。

半分は貧民

日本にどれだけの貧民があるか、 内務省が最近の調べで、 月収二十円、 家賃三円以下を支払う者を貧民として概算をしたことがあるそうなが、 その調べによると総人口の二分の一は貧民となるであろうということである。 正確を期するわけにはゆくまいが、 哀れな話である。 三百円以上の所得のある者でたった百二十五万人しか無い。 それを戸数にすると九十五万戸、 全国戸数の十分の一だという。 それで年二百四十円の収入のあるものは、 よほど割引しないと日本人の半分にはならないという。

都会と貧民

貧民が集団して居る貧民窟がどれだけあるか知りたいとつとめたが、 この方面に関する書物も見当たらないので詳細に知る事はできないが、 日本は北へ行くほど富の程度が低いということである。 奥州人は日本歴史が始ってからいつでも救恤きゅうじゅつを受けている。 飢饉ききんといえば奥州にきまっているらしい。 だから貧民は多いことは推し計られるが、貧民窟は多くないという事であるから、 貧民の多いところに必ず貧民窟があるというわけもないらしい。 貧民窟としては全国を挙げて東京、 神戸、 大阪の貧民窟が一番悲惨なもので、 これらの貧民窟を視察したならばひと通り貧民窟に精通するわけである。

ドン底生活

貧民窟はすべて悲哀のかたまりである。 この辺、貧民窟だと指図されて、 東京市の下谷したや萬年町まんねんちょう処々しょしょの貧民の「家」を散見したのであるが、 人間としてこれだけの品位を無くしても生活し得るという事実にまず驚いた。 足を延ばせば壁を突き破るような一坪の家にかまど蒲団ふとんたな飯櫃めしびつ水瓶みずがめの一つもあるでなく、 ただあるとすれば箱の三つ四つ、 ボロくずに竈がわりの石が三つ四つ、 かけ茶碗ぢゃわん竹箸たけばし土鍋どなべ鑵子かんすぐらいのもので、 これで家の諸道具全部とすれば、 古道具屋は一銭の金も払うまいと思うほどである。 家賃を聞いてみると二畳敷が四銭、 六畳敷がこれが最も最大なもので八銭からで、 日掛ひがけ家守やもりが毎晩七八時頃に集金して廻る。

彼等の食物

その萬年町に貧民小学校ともいう特種小学校がある。 貧民窟児童の特種教育をしているのは東京にはこの学校一つだけで、 創立以来の校長である坂本龍之輔りゅうのすけ氏が管内の貧民の食物を調査したことがある。 示された統計によって見ると、 白米 (多くは外国米) を食うのが百五十二、 麦が八十二、 残飯が十一、 芋が四。 副食物は、 味噌汁、 塩鮭、 里芋、 煮豆等が上等の部類で、 梅干、しお沢庵たくあんづけが最も多く、 特種小学校に子供を出すような比較的ことのわかった家庭でもその三割は三度三度沢庵漬たくあんづけでやって居るくらいの程度であるという。 こんな風だから安くて魚類とでも名がつくものなれば、 少々は腐っておろうがおるまいが喜んで買うので、 夕方になればこの種の魚屋が 「安い安い」 と云って貧民窟をならんで通っているという事である。

〔大正10年4月24日 『名古屋新聞』 3面〕

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