教育と宗教

小島生

私が教育界に足を染めてより四歳、 ずいぶん色々な会合に集まり、 斯界しかい新進の人々に面接する機会がかなり沢山あった事は終生を通じての祝福であった。 中には教材や教法について論じ合う真面目な闘士や、 教育者として取るべき、どこまでも忍従の生活を甘受する聖者のような先生方には幾度となく感謝した。 しかし大部分の、 殊に新進の教育者に対して一種の物足りなさを感じはじめた。 殊に宗教上の問題に関しては、子供以上に何物も解しない先生方の余りに多いのに気付いては、 怖ろしいようにも感じた。

私たちは理性や感情の動物であるとともに、 やはり宗教的動物とも謂えよう。 日常の生活に宗教を度外視するくらい不合理な、また危険な生活はあるまい。 教育者たる者は、 本棚の一隅に宗教上の書物を並べるのは当然の義務とまでに思っている。 「苦しい時の神頼み」 と云うが、 宗教は決して系統なき一時的流行物ではない。 唯物主義の生活には満足されるものではない。 時運は再び宗教に向って来たではないか。 飽満の後に来る飢渇は殊に深刻なものであるべきだ。 見よ、この頃の諸種の問題は、 宗教によって解決を求めんとしているではないか。

教育者よ、精神の空虚を満たす清く健かな安定の生活をどこに求めるか。 自己にすら信用の置けない不安定な私たちは誰に信頼するか。 友人や保護者も、紙屑ほどの価値なき場合がある。 私たちは熱心な時には、 永久の友情だ、愛だ、不変的誓約だなどと、大袈裟な事を無遠慮に口にするが、 それらは結局どうなったか。 その存在は余りに短いことが屡々しばしばある。 永久に結ぼうとした紐は案外もろいものだ。

私たちは何を目標として生活するか。 人は何かにつまづいて、 自己の力の余りに弱少なる事を自覚する時、 ここに不変不動なる超人者を探しはじめるのだ。 私たちは落胆や絶望に沈んだ時、 永久に見離されない救いの御手はあるか。

児童の人格は教師の人格に比例するものだ。 熟練ばかりが必ずしも訓育の能率を挙げるものではない。 情熱の先生こそ、 生徒に拝まれる人だ。 教育者は全我を傾注してこれに当らねばならぬ。 健全なる教育は健全なる宗教の上に建設されねばなるまい。 或る人は教育もまた一種の伝道であるとまで言っている。 もちろん私は宗教の教授を望むほど野暮は言わない。 もしも哲学が諸科学の総和であると許すならば、 宗教心は吾人精神生活の総量である。 学問心も道徳心も乃至ないし一切のものが集まって宗教心を渾成こんせいしているのである。 徳育の根本問題は心の浄化である。 心を浄化するものは宗教である。

しかるに現在の教育の状況は未だ宗教を顧みる人の少いのは限りなく淋しき事に思う。 中には 「理想の教師は宗教家なるべし」 と主張する人もある。 現在の教育界に今すこしく宗教的色彩を交えたならば、 一層緊張の度を加え、興味を増し得るものと思う。

私たちの理性と感情を調和し、 真と善と美と聖との実質を内側から如実に自覚せしむるものは宗教であり、 宗教の門戸を開く鍵はその書物より他にないと考える。

〔大正10年4月29日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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