燃えるままに
堀川岸にて
レリングは謂っている——
「普通の人から生活虚偽を剥奪せば、
それは同時にその人の幸福を剥奪す」
と。
虚偽の色彩に自己の本能を
「光雲无碍如虚空」
一切の
第一者が理想的生活を善と肯定するに対して、 第二者は現実を承認する。 すなわち人類の本能満足を主張して、 あらゆる法則を離脱せんとする。 すなわち人間本来の性慾の満足を正当なりと肯定するものである。 しかし一歩退いて看破すれば、 理想的を是認して、 いわゆる向上的生活を送るのが真理であるか、 或いは本能の衝動のままに生活するのが正理であるか、 そのいずれにも
軍扇 を挙げ得ない。理想によって、 コスモスの世界を想像して見ても、 現実には合致せぬ。 さりとて現実に帰って
看 れば、此処 はケイオスの世界で、紛雑 きわまりなく、 どこに道があるか不明である。 かかる場合において、 第三者の取るべき道は、 或る意味においては消極的で、 理想崇拝にも、 本能満足にも、 いずれも左袒することなく、 川端柳の、水の流れを見て暮すだけのことである。即 ち何事にも、正義、善、美、或いは不正、不義、醜悪等の価値を付帯して見ぬのである。 この第三者の位地、 即ち傍観者の位地に立って、 人生の現象を描写せんとするのが、 即ち自然主義の目的である。 いかなる現象をも、一つの理論を以て判断せぬ。 ただ有りのままを写すだけで、 それに是非の言を加えぬ。 即ち無解決の態度である。 本能満足主義の如きは、 本能満足ということをもって人生を解決しようとするものである。 そこに有価を認識したものである。 それを奨励するものである。 自然主義の行き方は、 本能満足主義の徒を写すとともに、 制慾主義の人々をも描くこともある。 しかしいずれにも価値を与えぬ。 いずれが正理正当であるとも看ぬ。 ましていずれをも奨励することはない。 極めて平らかにして、 最も冷やかなる鏡面のごとくに、 人生を写すのがこの派の態度であって、 本能満足主義とは根柢より異っている。
と一学者は謂った。 至心は本能満足主義でもない、 自然主義でもない、 また制慾主義でもない。 広大無辺の至心の前には、 主義、宗教、哲学のごときは、 一毛の価値も無い。 価値も無いのに肯定しては居られない。 非常に忙しいのだ。 頑冥の悪夢を見ては居られぬ。
大地の底から燃え出づる至心本能の炎は、
総てのものを焼き尽くさねば
純真の泉から
道徳とか、法律とか、社会とかに縛られている罪人達が、 狂者、馬鹿者、欺瞞者と罵倒しても、 尊い本能の覇力にガッシリと抱かれた耳には聞えない。
自己の真誠心は絶叫している、
走れ、走れ、真随の楽土に走れ、
〔大正10年4月30日 『新愛知』 「緩急車」欄〕