経済詩論――水野君に寄す(上)
鵜飼桂六
近代的経済学者としての三名家、スミスやマルクスやクロポトキンらの教うるところに従えば、経済学とは、只だ永遠に飽くなき人間の所有欲望を利用して、富の生産とか、分配とか、交換とか、消費とかいうことのみを、思考上の対象的研究問題とするに過ぎないもののごとくである。もし如上の定義にして、経済学の本質を論ずるに足るものとせば、近代科学の一部は終に破滅に瀕せざるを得ない。けだし人間の経済生活を支配するものは、富、他の言葉で謂えば、物それ自身にあるのではなくて、貧、すなわち霊魂にあるからである。随って富める者の幸いは、畢竟、貧しき者の福いに如かない。
かつてオスカア・ワイルドは、ド・プロフンディスの中で言っている――「私は完全に無一文で、そして絶対に無宿である。しかし、それよりも悪いことがこの世の中には沢山ある。私の心に惨苦を抱いてこの牢獄を出るよりも、むしろ私は容易に且つ喜んで、私のパンを戸毎に求めて歩く方がましである。たとえ私は富者の家より何物をも得ないまでも、貧者の家から何物かを得るであろう。多くを持てる人々は屡々貪婪であり、少く持つところの人々は常に頒つ」と。
然り。見よ、現代において、多くを持てる人々は屡々貪婪であり、少く持つところの人々は常に頒ちつつあるであろうことを。このゆえに私は信ずる、如何にすれば皆の者が一様に富むであろうかということを研究するよりも、如何にすれば皆が平等に貧に安んずるかということを明示すべきである、と。
かくて私はスミスの個人主義にも反対し、マルクスの社会主義にも反対し、クロポトキンの無政府主義にも反対する。否、今の一切の社会改造論者にも断じて左袒しないであろう。かく言えばとて、私は決してスミスやマルクスやクロポトキンらの功績を認めないわけではない。かえってむしろ、スミスが往時の封建的社会制度を根柢より破壊せしむる上において大いに与って力ありたること、マルクスが近世の資本主義的経済組織を顛覆せしめよと痛論して、磅薄たる労働運動を喚起せしめたること、クロポトキンが有らゆる国家主義を否定せよと道破して、人間の本当の良心に愬えて以て相互扶助の学説を提唱し来りたることなどは、私の今もなお深く共鳴を覚ゆる点であって、これらの点については満腔の敬意を払うに吝ならざるものである。而も私の議論の焦点が悉く皆これらの人々の議論と相反する点のみなるを以て、私は遺憾ながら右三者の人々と勢い敵味方に別れなければならぬ。
殊に従来のすべての衒学的経済学者や、浅薄なる頭脳の所有者たる鵺的社会主義者に対して、私は茲に、その彼らの常に説きつつあるところの生活様式革新論とも名付くべきものの如何に迂遠であり、如何に雑駁であるかを指摘論難せんと欲する者である。尤も私は、彼らの中にも好き頭脳を持つ二三の例外者あることを否むものではない。されど、これらの人々の説くところも、ただ単に富の所得および分配問題についてのみのことであって、更に深刻なる民衆の必然的要求に裏付けられたる真実の人生の問題、生活の問題、生命の問題等に関する徹底的の議論とは少からざる逕庭がある。