鵜飼君の改宗 (上)

悠々生

瀧本博士のマルキシアン社会主義を排するの一文、本紙に発表されてより、猛烈にこれに切って掛った二人の武者――しかも世の常ならぬ武者振むしゃぶり勇ましく、マルクスに精通することにおいて、断じて瀧本博士に劣らない二人の無名の青年学者――を発見したこと、特にその反駁が本欄に連載されたことは、かつて述べたるごとく、私達の大いに誇りとするところである。

当時、マルクスの是非を論ずる各戦士の戦闘はいよいよでていよいよ激しく、到底その終局を見る機会なく、またジョルナリズムとして、こうした戦闘のため久しくその領土を荒されるのは読者の迷惑と感じたる私は、無用にもその間に水を入れて休戦を宣した。けれども、マルクスに関するこの戦闘は、後に至って聞けば、田舎の読者すらも多大の興味をもってこれを通読していたとのことであった。惜しいことをしたものだと思っても追つかないから、休戦当時私が宣言した通り、後日機会を待って、私の匣中こうちゅうに蔵してある各戦士の論文を本欄に発表しようと思っていたところ、今やこの戦闘の形勢は突如として一変した。

爾来、マルクスのために奮闘した戦士の一人鵜飼うかい桂六けいろく君は、マルクスを捨ててカントに就かんとしつつある。物宗ぶっしゅうより霊宗れいしゅうへと改宗した。私は彼が瀧本博士を攻撃するに際し、余りに毒筆を弄した嫌いがあったため、これを本欄に掲載するとき、僭越ながらも、これに筆を入れ、もしくはこれを削ったほど、彼は極端なるマルクス宗であったのだ。そして博士を攻撃した彼の論文にして、今なお掲載されないで匣中に蔵されているものが二文ある。こうした突然なる彼の改宗に驚いたものは、敢て水野昌蔵みずのしょうぞう君のみではない。私もまた大いに驚かされた一人である。けれども、この改宗に関して、水野君は彼に悪罵を浴びせかけたるに反して、私はこれを大いに祝福したい。

ろうを得てしょくを望むは人情の常、物質的の欲望には際限がない。「我にパンを与えよ」と絶叫する労働者に一片のパンを与うれば、さらにヨリ多くのパンを要求するに至るのは、鵜飼君のいう通である。いな、私達は彼らの要求に応じて、一片のパンを与うれば、彼らは右手にこのパンを受取って、左手に肉の一片を与えよと要求するに相違ない。否、彼らにしてパンと肉とを得れば、次の瞬間には酒、またその次の瞬間には女を要求するに相違ない。一言にしていえば、孟嘗君もうしょうくん食客しょっかく馮驩ふうかん長鋏ちょうきょう帰りなんやのたんをそのまま現代に演じて、更に足らざるものを与えなければ彼らは或いは同盟罷業し、或いはサボらんというに相違ない。

戦時財界が好景気で、黄金の水が波立って都市を流れたとき、職工成金なるものは、そもそも如何なる行動を敢てしたか。彼らは自動車を飛ばして、狭斜きょうしゃちまたに出入し、紅燈緑酒こうとうりょくしゅの間、物質的なる刹那の享楽に耽ったではないか。そしてその結果は如何というに、戦後恐慌が襲来した折には、悲惨なる失業者となり、もとの杢阿弥もくあみ以下の運命に泣かねばならなかったではないか。かくて彼らは夢中に享楽した昔を想い出して、鵜飼君のいうところ「最も貧しきときが最も幸い」なる時、「最も貧しきものが最も幸いなるもの」なることを悟らなかったであろうか。

鵜飼君は物を棄てて霊に生きんがために、富や生産やを高唱して人類の物質欲のみに囚われた世間的ウォードリーなるスミスやマルクスやクロポトキンを排した。否、彼は今や一切の物質的なる経済学より解放された、また解放されんとしつつある。彼は富の哲学を去って、貧の哲学に就かんとしつつある。足るを知らざるものは天堂においても地獄に居ると同様、足るを知るものは地獄に居ても天堂に居ると同様である。私達はまず貧に処するの道を講じなければならぬ。貧は清くして尊い。そして喜ばしい。私は今、私の実験に徴してこれを証拠立ててみたい。

〔大正10年5月8日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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