私
私は真実に一個の人間でありたい。人間以上の神様のようなものにもなりたくない。それかというて人間以下の動物のような生活もしたくない。とまれ、完全に一個の人間として生活して行きさえすれば、この上なき満足である。ところがこの人間としての真実の生活が私には完全に行われていただろうか。
先輩の前に出ると腹にもないお世辞を述べたり、無意味な謙遜をしたり、得心の行かないことに賛成したりなどしやしないだろうか。また弱輩の者にのぞむ時には、虚勢を張ったり、傲慢な態度をしたり、或いは自分の主張が最善なものであるかのように吹聴したりはしないだろうか。
人間としては当然あるべき行為、しかし社会の既成的道義観念から評する時にはあるべからざる行為をなした時、私はこれを人に
資本主義経済組織の中に生れ出て、現社会と必然的関係を結んで生活している私が、自分の生業は金儲けでないなどと虚言をはくような面の皮の厚いことができようか。自分の現在としての生業の目的はどこまでも金儲けだ――金儲けだ。
しかし私はこの金儲けのために、自分の人間としての尊い生活を犠牲にしているのではなかろうか。自分のための金儲けか、金儲けのための自分かの判断がつかないような迷宮に陥ってはおりはせぬか。「富なにかあらん、生活のみなり」とラスキンが云った言が自分には充分に了解せられているだろうか。
形式のみの学問をして肩書を得て、
自分の利己心を公明正大に満足して行くだけの勇気が私には無いのか。社会奉仕を金看板にして自分の利益を追求している社会
自分の理想が社会主義だからとて、現在の自分の行為も社会主義的であるかのような虚偽な態度を私は為し得ようか。私はどこまでも社会主義に最高の信念を持している。しかし自分が必然的運命として生れ出ている社会が今なお資本主義の
難者は云う、実生活の真髄より出ない議論はなんらの価値がない、と。私は云う、生活に執着している者の議論がどれほど価値があろうか、と。「閑暇は、自由にして成果ある思索活動の第一条件である」とジェイ・エイ・ホブソンの云うたごとく、口調を合して私も云いたい。
とにかく私は完全に一個の人間でありたい。人間として認識し得る最善の真理があるならば、私はどこまでもそれを宣伝したい――私のためでもなければ他人のためでもない、ただ真理と人間のために。
これは私の愚感である。これまで倦まずに読んでくれた読者はこの文に対して何らの反省をせられないようにと願う。
〔大正10年5月10日 『新愛知』 「緩急車」欄〕