他愛もなき大本教

教理に権威を認めない原始的宗教

出口王仁三郎、浅野和三郎の不敬罪および大正日々新聞に対する新聞紙法違反事件は、 その後久しく当局より掲載を禁止されていたが、 去る十日をもってその禁を解かれたるがため、 私どもはここにこれを報道し、 あわせてこれを批評するの自由を得るに至った。 しかも、 謂うところの大本教事件は、当局がしかく驚きの目を見張って検挙すべきほどの一大事件ではなく、 一言にしていえば、 宗教的なる誇大妄想狂が、 その耽りつつある妄想に従って、 勝手な熱を吹き、 他愛もなきことを口走り、 他愛もなきことをしていたというにとどまり、 取り立てていうべき価値のないものである。

宗教は、 宇宙の真理、人生の真理を把握し、 これに従って思索し、行動する点において意義あり、価値あることは、 今あらためていうまでもない。 したがって宗教家はその宗教の生命たる教理に絶対的の真理ないし内在的の真理を認めて、 一心不乱にこれを信じ、外部相対的の権威や教権を借り来ってこれを虚飾してはならない。 もしも彼らにしてかかる虚飾を欲し、 またこれを欲するべく余儀なくさるるならば、 彼らの信じている宗教は邪教であり、 少くとも真の宗教ではない。 この点において大本教は邪教であり、 少くとも真の宗教でないことは、 識者の挙げて認むるところであった。 ただ少数愚昧の徒および精神的に或る欠陥を有している少数識者が、 悪魔包囲の念に駆られて、これに走り、 一時世人を驚かしていたに過ぎない。 そして今や同教が邪教であり、 少くとも真の宗教でないことが、司法当局の手によって多数国民の前に暴露された。 宗教界のため、国家のため、慶賀に堪えないことである。

欧州戦争以来、当然の結果として、 世界の人心には蛮性ばんせい復原ふくげんの兆候を現わし来った。 形は異っているけれども、 目下いたるところに戦われている階級闘争のごときも、 ただそれ闘争という点において、原始的であり、野蛮性の発現であり、 真の戦争とごうも異るところがない。 人心の廃頽はいたいを救うことをもって、 当面の一使命としている宗教もまたこの例に漏れなかったのは、 私どもの戦慄に堪えないところである。 我邦わがくににおける大霊道や大本教が一時隆盛を極め、 今なおその余命を保っているのは、 すなわちその証拠の一つにほかならない。 これを宗教というは当らずといえども、 私どもは今世間なみにこれを宗教と称して、 しかしてこれを検討するに、 これらの宗教は、既述のごとく、その教理自身に何らの権威を認めず——というよりも、何ら一考するに足るべき教理を有せずして——ただ愚衆を迷わすべき暗示を掲げて、 感情的なる一集団を作っているというに過ぎない。 教理の未だ発達しなかった原始的の宗教にあっては、 これを伝道するものが原始人に対して何らかの奇蹟きせきを示さなければ、 彼らはこれを信じなかった。 原始人はもとより内在的の信仰というべきものを有せず、 ただ外部より圧迫された信仰を有するのみであった。 それゆえ原始社会にあっては、 伝道者は盛んに暗示を利用して、人心を導かざるを得なかったのである。 例えばキリストのごときも、 伝道の当時は盛んに暗示を利用して、 めくらの目を明け、 びっこの足を立たしめた。 けれども大胆なる研究と分析との上に立ち、 現実的なる確実性を以てその生命としている近代的文明にあっては、 暗示は少数無智の徒を眩惑げんわくし得ても、多数の目ざめたる近代人を指導するの力がなくなった。 そして宗教上の教理も幾多、科学的理智の試練を経て今日に至り、 その説明も自ら組織的となり、 整然一糸いっしみだれざるていのものでなければ、 近代人は容易にこれを信じないのである。 大本教、いかに時代の欠陥に乗じて起ったものとはいえ、 こうした科学的特性を帯びている近代において、 いかにそれが日本であろうとも、 さほどに多数の帰依者を有し得ないことは明かである。 故に、これはうっちゃって置いても、近代人の自由検討の結果、早晩滅びなければならぬ運命を有していたのである。

試みに彼らが如何に近代的の智識に欠けているかを見よ。 彼らが如何なる陰謀を企んでいたかは今しばらく措いて論じないが、 謂うところ黄金閣の下に穴蔵造りの秘密室を造り、 その秘密室の唐櫃とうひつの中に金二万円を貯蔵し居たるほか、 二百ふるい以上の刀剣を蔵し居たるがごとき、 また竹槍を製造するために幾坪かの竹薮を買入れたるがごとき、 如何に児戯に類し、 如何に他愛なきかは、 近代人をして失笑を禁じ得ざらしめる。 彼らは欧州戦争以来、近代的の武器が如何に発達しているかを知らない。 さればこそ他愛もなき妖言ようげんを流布して人心を惑わしめたのである。 児戯に等しき大本教を検挙した政府当局も、また児戯に等しきことを敢てしているの非難を免れないが、 かかる児戯に等しき他愛もなき大本教も比較的知識階級に属すべき予後備軍人を迷わし得たるの危険ありとすれば、 これを検挙して一鉄槌てっついをその頭上に下すこともあなが徒事とじとして排し去ることはできないであろう。 しかも問題の性質は依然として重きをくに足らないものである。

〔大正10年5月12日 『新愛知』 1面無署名論説〕

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