満天下の逆賊呼ばわりを返上す (1)

大本事件と世論

大正日日新聞社編輯長 池澤原治郎

全国各新聞が一斉に我が大本信徒にあびせたる弥次やじ攻撃は、 ただ単に興味本位の読者釣りである事は誰にも分る。 しかし世の中はめくら千人、目明き千人であり、この際、各新聞の虚報材料も品切れとなったらしいから、 進んで材料を提供し、識者の冷静なる批判をつことにする。

われわれ大本信徒は飽くまでも国体の信者にして、皇道を奉ずるものである。 敬神、尊皇、愛国以外、一歩をも出づるを許さぬのが即ち皇道である。 我が国史の尊厳と伝統的美風が今や地に墜ちんとする時、 これに科学的考察と実験を加え、 新生命と新活力を与え、 我が国民がますます多難なる国運の負担に堪ゆべく、 精神的方面より惰眠を破って、 もって最も閑却されたる国家奉仕の信念を鼓舞せんと欲するものである。 しかもそは一日をおそうする能わざる目前の急務と信ずるものである。 分け登る麓の道は異れど、同じ高嶺の月を見るかな。 いやしくも憂国の至情に燃ゆる志士仁人は、 食わず嫌いの受け売り攻撃をなすひまに、 我が大本信徒の熱烈焼くがごときこの憂国の大信念、大感化をそもそも何者より得つつあるかを研究し、 今日の我が国情ならびに世界の大勢に照らして大本出現の偶然にあらざることを諒得りょうとくするだけの雅量があって欲しいと思う。

我が大本信徒は、果して全国各新聞紙が付和雷同して攻撃するごとき非国民、逆賊の集団であるかどうか。 大阪における朝日、毎日両新聞は、ともかくも関西における二大権威であって、 その紙上に論議報道された事は正否にかかわらず多数国民の思想を支配する事が多大であるから、 余は主としてこの両新聞に現れたるものに対して筆を取ることとする。 両新聞ともにその編輯へんしゅう幹部には余の知人多く、 したがって余は何人が如何なる心理をもって執筆し且つ編輯しつつあるかをも知悉ちしつするの機会を有しているが、 その人々に対しては余は個人として何らの恩怨おんえんも無く、 かつ我が社の同人らもまた社外においては同業者として両新聞社の同人諸士と共に報道機関の職責を尽すために相携えて行動しているから、 この点は特に彼らの襟度きんどのために一言しておく。

さて今十四日の大阪朝日新聞朝刊を一瞥すれば、第三面に大本教批判と題する特設欄において、 文学博士姉崎正治氏の 「亡国と神政を確信する危険性」 と題する談話を紹介している。 博士は一個の学者として綾部視察に行ったという触出しであるが、 そもそも何を視察したのであるか。

「私の考えによれば彼らの中には、なるほど喰わせ者の山師も居るけれど、また真に熱心な信者もかなりにあって、 神と霊的の交通をして神意を承け、将来神政の行われるという確信の下に、神意によらぬ人間界の事はすべて虚偽である、現在の政治も制度も奉ずるに足らぬ、との教義に固執して動ぜぬものも確かにある。 そしてこれらの徒は社会の変遷は自然の推移に任せず、急激に人為的に行われるものと信じているから、 もし何かの機会で斯様なことを企てぬものでもないが、 果して大本教にこれほどの予備行為があるか否か、私はにわかに断ずるわけにはゆかぬ」うんぬん

と云っている。 これは実に馬鹿馬鹿しい、むしろ憐れむべき杞憂であって、 博士もまた一般新聞紙の弥次攻撃に迷い、 いかにそれが先入主となっているかということを自ら語っているものに過ぎない。 そんな態度で綾部を視察して正鵠せいこくなる観察の出来ようはずはない。 当局者が二ヶ年もかかって徹底的に精探せいたんしたる今回の事件の予審決定書にも明かなるごとく、 我が皇道大本に不逞ふていなる予備行為を云為うんいさるべき何物もなき事は、反対に当局者より証明せられたのである。 博士の云うごとく大本信徒が今回の事件に対し存外平気でいるのは、 一面においてかくのごとき世間の誣妄ぶもう憶測を根絶せしむべき機会が与えられた事をむしろ喜んでいるからである。

大本信徒は社会の改造よりも人心の改造を先にすべしとの信条を固執し、 「改心」をもって教えの第一義としている。 したがって人為的に何ら社会改造手段を講ずる必要がなく、 換言すれば「神為的」にすべてが成就せらるるものと確信している。 国民が今にして覚醒せざれば「国難」の来るべき事を信じているが、 国体の信者が何のゆえに亡国を信ずるか。 我々は目下の国情と世界の大勢を観察して、この国を憂えざるものをもってかえって危険なりと断ずるものである。 大本信徒が「神」もしくは「霊」を説くや、 いわゆる学者は口をそろえて直ちに迷信あつかいせんとする傾向があるが、 日本国民にして神を無視するものをかえって我々は危険視するの情に堪えない。

何となれば内閣諸公が口を開けば必ず云うところのいわゆる 「国民思想の混乱動揺」 なるものはその本源をここに発しているからである。 試みに見よ、国民教育と称する小学校においては和気清麿公の誠忠を説き、 あるいは女学校等においては畏れ多けれども昭憲皇太后の阪本竜馬の霊夢物語を説いている。 もしその事は信じないけれども尽忠鼓吹じんちゅうこすいの政策としてこれを説くというのであれば、 これ虚偽の教育ではないか。 神を認めず、霊を無視せる学者より観れば、 和気公の神勅は虚偽であって、 霊夢なるものは錯覚であるということに帰着する。 至誠神に通ずるというその神なるものも迷信に過ぎないとすれば、 全国各地に鎮座せらるる神社崇敬は伝説保存、 旧蹟きゅうせき維持もしくは国家の功労者記念の意味以上に出でざる政策ということになる。 余はことさらに論議の自由を有せざる国体論を障壁として反対論者の口をかんせんとするものではないが、 もし国史に列記せられたる神々をも否認すべしとなれば、 我が国体はそのって立つところの基礎をどこに置くべきか、惑なきを得ぬのである。 われわれ大本信徒は 「神」 を否認する学者、新聞記者に対し謹んで逆賊呼ばわりを返上する。

〔大正10年5月14日稿 『大正日日新聞』 所載。 『飽くまで天下と戦わん』 1〜4頁に転載〕

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