貯金について

水野昌蔵

床屋にも湯屋にも、さらに飲食店へ行っても私たちは常に、 少額勧業債券募集や簡易保険勧誘の広告を目厳しく見受ける。

広告の目的は下級労働者に殊に応募を勧誘しているように思える。 がしかし、 果してその応募が労働者個人の立場から、 また広く社会国家の立場から深く考えて絶対的に善いことだろうか。

今日の文明の程度から考えて、 それ以下に節減すべからざる最低の生活程度すら、 完全に支持し得られないような賃銀を得ている労働者に向って、 貯金の徳を説いてどれほどの効果があろうか。 もし彼らがただ単に貯金は美徳であるという事柄のみを頭に浸み込まして、 その現在のみにすら既に不足な賃銀より若干を割いて将来のために蓄えたなら、 その個人のために、また社会国家のために、善い結果をもたらすだろうか。 彼らの身心の発達を阻止するは勿論、 更に更に堕落させるであろう。

特に子供の教育のために必要なる費用より殺減さいげんして貯金するような場合があったなら、 これ以上社会国家に損になることはなかろう。 子供を小学校より更に進んで中学校に入れ得べき余裕のある家庭が、 貯金のために中等教育を廃止したり、 或いは更に高等の教育を中止したりすることが、 その家庭にとって、また国家社会にとって、 幸福を増す方便だろうか。

今日、 中流以下の者の貯金は、 彼らが人間として生活して行くに必要欠くべからざる費用の一部を、 殊に子供の教育費の大半を奪い取る。 また往々にして貯金の徳が吝嗇りんしょくの悪徳に変じ、 平和円満なる家庭の幸福を破壊するような怖れはありはしないか。 たといその貯金が、 やがて恒産を構成し、 利息を生じ、 その実行者に対して充分なる報酬を与うるに至るとしても、 そのことを社会的に批判した場合、 社会の有機的幸福の規矩きくを以て批判した場合、 ジャスティファイせられ得るか。 社会は、 人間生活として最高の価値なる、知識的道徳的資本——この資本は教育に費用を投じて得らるる——の代りに単に物質的資本を集積し得るにすぎない。

かくて社会は無謀なる貯蓄奨励によって多大の損失を招く破目に陥る。 またそれをただ、 将来の経済的生産のみの立場から考えても、 この奨励は有害なものであろう。

現今おこなわれているような、 唯物的な貯金奨励方法は、 社会の有機的幸福の増進の見地から考察して、 讃美し得るものかと、 私は敢て識者にただしたい。

〔大正10年5月16日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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