社会改造と宗教

山本善太郎

近時きんじ、社会改造の声は八方に起って、一にも改造二にも改造と、やかましく云われだしたが、その成績に一向いっこう見るべきものの少いのは何故であろうか。かかる現象は、普通一般にとなえられるところの改造論が、その根柢こんていにおいて必然性と普遍性とに欠けているためではあるまいか。勿論もちろん、現代社会の欠陥とそれに伴う改造の必要なことは近代人の挙げて認むるところである。

しかるに、世に謂うところの改造論のほとんど大多数は、その説くところ不徹底一局部的であって、根本的に徹底した解釈を与えているものは極めて少い。一例を引けば、かの労働者対資本家との報酬関係における両者の意見のごとき、或いは社会改造主義者をもって自認する人達の破壊的運動のごとき、いずれも中庸ちゅうようを失った我田引水論とうもあえて過言ではあるまい。近代科学の異常な発達と物質文明の進歩が一面において人心をいびつにしたことは心ある者のひとしく憂慮するところである。幾万の人間が各自異った立場から各々おのおの利己的排他的な改造論をいくら唱え出しても、それが結局何になろう。かえって喧々囂々けんけんごうごうとして社会の喧騒けんそうを招くに過ぎない。勿論、時勢に順応して社会を局部的に改造するのも必要ではある。けれどもそれは民衆の安寧あんねいと幸福を基礎とされた場合に限る。

およそ人間の安寧と幸福との目的を度外視した改造論に何の権威があろう。然らば人間の安寧と幸福とは如何なるものか。地位や名誉や財産は世の多くの人が言いつ求めているように果してそんなに必要なものであり、吾人ごじんの欲求を満足させ得るものであろうか。また如何にすれば最も多くの人間が幸福な生活に入ることができるか、その問題に直接なる最も徹底的な解決を与えるものは宗教である。

宗教は「霊主、パン従」を説き、吾人の真生命しんせいめいを教える。人間はついに物質的幸福によって満足し得るものではない。自己の真生命に目醒めざめた時、初めて人間は限りなき愉悦と幸福とを得るものである。この真生命の自覚なくして、いたずらに物質欲のみを満足せしめようと齷齪あくせくする人は、あたかも土台なくして空中に楼閣を築こうとするに等しく、何も得るところはないであろう。宗教は母である。真生命は大地である。飯櫃めしびつでいえば底である。底のない飯櫃にも、時には飯自身の粘力によってしばらく周囲に付着しているかもしれない。

けれどもそれはやがて崩れ落ちなければならぬ。底のある飯櫃に盛られた古飯はいつまでも安全である。そこに宗教の有難味がある。こいねがわくば諸兄よ、そこに注意して欲しい。私の言わんと欲する所もそこである。ことにこの言葉は、私と同じような青年男女諸君にささげる。宗教は決して老人や大人ばかりのものではない。むしろ若くして、ともすれば誘惑や虚栄や煩悶はんもんに陥りやすい現代の青年男女にこそ最も必要であろう。

宗教的精神を基礎とした力ある改造論であって始めてその実成績をあげ得ることと思う。私はまだ宗教については極めて幼稚だ。ただその偉大な力を痛切に感じたにすぎない。その自分の体験から、少しでも悩める人の力ともならばと思い、浅学をも顧みず、つたないこの一文を書いたのである。宗教について希くば先輩諸兄の御教導を乞う、この貧しき弟のために。

〔大正10年5月16日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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