独好がりを排す (上)

伊藤五城

私はこういう失礼な言葉を許されるならば、 鵜飼ならびに悠々生両君をひとがりだといいたい。 全然卑劣な懶惰らいだな思索家だといいたい。 彼らは何故そんな雲水うんすいの一年生のような生半可なまはんかなお悟りに満足し得るのか、 私は解するに苦しむのである。 めくらがにわかに目明めあきになって、 きたないものを見たといって 「ああ元の盲がよかった」 といったような事なのだ。 吾等われらの視界に醜いものが多いといって、 吾等の退いて眼をつぶるより、 進んでそれを取除けたほうがどれだけよいか? それによって吾等はより大なる美を得られるではないか? ただそこには難易の問題があるのみだ。

富者が不道徳であるのは、 先天的原則ではない。 ただ歴史上の事実だけだ。 富者が不道徳なのは富者が富者たるがためではない。 富者たる人間が不道徳なのだ。 或いは富者の存在する社会が不道徳なのだ。 富者の不道徳を匡正きょうせいする根本的方法は、 富者を貧者たらしめるにあるのではなく、 富者たる人間を改善し、 または富者の存在する社会を改革するにあるのだ。

いやしくも吾等が理想を拒絶しないならば、 吾等の祖先の祖先から決して絶えたことのない吾等の文化をして、 最高点に達せしめんとする意志を否定することはできまい。 そうして、 そういう理想の社会は決して精神的方面一方とか、 物質的方面一方という偏頗へんぱなものであるはずがないだろう。 その両方面が一様にその極致を現わして居らねばならないだろう。 物質的のすべての快楽が備わり、 その快楽を受ける人々の精神的内容には決して真善美の反対のものの存在は許されないだろう。 すなわち吾等の肉と霊——本能と道徳がよく調和し、 協同するのだ。 富が罪であって、 貧が霊であるというようなことはない。 すべてが物質的に富み、 精神的に正しいのだ。

この理想は夢ではない。 夢だというような人はよっぽど頭が貧弱なのだ。 どうしてそれが夢であろう。 「求めよ、しからば与えられん」 とキリストもいっているではないか。 皆この人々がこの理想を追求するならば、 必ずそこに達することができる。

こういう理想に対して吾等は物質的享楽を遠慮することはできないだろう。 実際、遠慮しないのが当然だ。 どしどしそれを追求すればよいのだ。 ただ自ら教育することを忘れてはならないだけだ。 善意をもって大いにやらねばならぬのだ。 物を捨てて霊に走るとか、 足るを知るとかいうことは、 つまり教育の効果を無視しているのだ。 短見者流たんけんしゃりゅうが経済学をやると、 経済学に拘泥こうでいするのあまり、 それでもって社会問題のすべてを解決しようとする。 偏見を盲信しているうちはよいが、 何かの機会に行詰まると、 すぐ経済学を否定してしまって、 何ら自分の短見を反省することをしない。 経済学こそよいつらの皮なのだ。 社会問題がそんな簡単なものでないことは知れ切っているではないか?

〔大正10年5月18日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

目次へ戻る