生の悩み
教育者組合について
高澤乙彦
同じ目的に向って進み、
共通の利害をもっているものが、
出来得るだけ或る一つの縦断的連関関係を繋いで行こうとすることは、
あらゆる職業団体の近代的要求であるが、
方今、教育者間においてもまた、
この要求はかなり強く叫ばれている。
共同の目的に向って進み、
共同の利害を伴えるものが相結合して、
その正当の権利を主張し、
正当の発展をはかり、
教育者としては教育者仲間の社会的地歩を確立し、
社会的勢力を伸張し、
その行わんとする国家社会的教育的理想を実現せんと企てることを、
不都合と想うものはあるはずはない。
況んや自主自立の教育を樹立するの要は、
教育者それ自身の真の自覚と、
その人格的個性に発展力ある教育思想を扶殖する所以であることを考うるならば、
方今唱えられつつある教育者組合の組織は、
やがて国民教育の進歩発達をはかる源と認めるのが至当ではないか。
教育者組合は、単能組合の一種としても、我らは須らくそれの発達を歓迎し、
助成すべきであるにもかかわらず、
教育者自身、あえてこの行動を正々堂々と開始しないのみか、
今日の或る一部社会もまた、
教育者組合と労働組合との関係を論じて、
教育者が労働組合の精神および手段によって其の待遇方法や執務条件などの改良進歩をはかるために政治上に、
将た経済上に活動せんとするは教育者自らの威厳を損ずるとともに、
且殊に我国のごとき古来より儒教的道徳観念に支配され居る彼の「教育者」そのものの価値を傷つけるものであるかのごとくに云為する傾向の尚多く存在しつつあるは争うべからざる事実である。
しかしながら想うに、
今日の教育者自身の心理状態は、
道理上一切の組合的行動を否認し、
これを悪事と想っているわけではあるまい。
勿論この近代の顕著なる団体的行動の大勢に促された彼ら教育者の大部分は、
それの全体としての社会的生活の合理的発展の上よりして必然的に、
将た心理的にこれを正当視しているのであって、
決してその事が単なる階級的利己的な偏見に固まるものでなく、
また排他的でもないことを信じて居るわけである。
では何が故に、
今日の教育者が一方にこの必然的な団体的行動を承認しながら、
前述のごとく正々堂々たるの処置に敢て出でないのであるか。
このことについて一つの挿話が私の手許にある。
一昨年の暮の頃だ。
私がかつて居たことのある北国の或る都会の小学校に居た若い教育者たちが、
校長やその他の人たちから殆どかくれるようにして或る集会を催し、
そしてその小学校だけの教育者組合という風なものを組織するとともに、
これを漸次市内の各小学校に居る若い同志たちに宣伝することの決議をした。
決議は秘密に同志の間に頒たれ、
気運は熟して、
或る場所で同志すべての熱烈なる大会が催された。
彼らは、ただ他から誤解されはしまいか、
不都合者と想われはしないかという、
卑屈な、怯懦な習性に囚われ、
自己の考え得た道理の上に立って動くことをせずして、
只管に他人の想惑如何、
為した後の何かの結果如何をのみ気づかって、
終には何ごとも積極的行動に出で得ない校長やその他の想惑者連を嗤った。
ところがその翌朝になると、
この大会の模様がすっかり土地の新聞によって報道せられた。
驚いたのは校長やその他の人達ばかりでなく、
その大会を開いた若い同志たちだ。
校長やその他の人たちは、
内心秘かに賛成の意を表しながらも、
他に憚って、
押強くも仮面を冠って不都合呼ばわりを敢て為し、
一方
「教育者仲間の社会的地歩を確立し、
社会的勢力を伸長し、
その行わんとする国家社会的教育的理想を実現せんと企てることを不都合と想う者それ自身が不道理と不都合である」
と断じた若い同志たちは、
あおくなって自己の首の飛ぶこと或いは転任を怖れたあまり、
ただちにその夜の大会によって決議せられた組合組織の破壊を誓うたものである。
これによって私たちは何を訓えられるか。
教育者自身の弱さを嗤うにはあまりに悲惨な問題でないか。
私はこの小論を未解決のまま本紙を借りて世に発表する。
(21・5・14夜)
〔大正10年5月19日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕