私の良心よ (一)
水野昌蔵
私の良心は私に恁う云う——
おまえは極端なる二重人格者ではないか。
おまえの主張、
おまえの信仰は社会主義でありながら、
おまえの行為は資本主義的行為、
殊に社会主義の見地から論じて最も憎むべき生業の実行者ではないか。
おまえはこの大なる矛盾を感じないのか。
私は答える——
私はそこに何らの矛盾を感じない、と。
私が資本主義経済組織の中に生活し、
殊にブルジョワの階級に現在属しているということは偶然のことである。
抑も今日この世に生れ出で居ることすら、
私の意志には寸毫の相談なしに出来したことだ。
自分が生れ出たのではない、
自然と出産させられたのだ。
こんな世に生れ出なかった方がよかったと私は度々呟いた。
成長するにしたがって私はだんだんと社会との交渉の密度を高めて来て、
家業に従事するようになって、
いよいよ離れることのできない社会的諸関係の密網の中に絡まり込んでしまった。
自分の生業に携わるために、
その生業が社会的生産の一部を構成する以上、
私は私の意志に少しの交渉もない独立した、
そして避くべからざる必然的の社会関係内に入り込んだ。
しかしてこの必然的社会関係の中で私が占めた位置がブルジョワに属するものであった。
資本主義経済組織の中に生業に従事している以上、
私として偽らざる第一の目的は自分のための金儲けにあるのだ。
どこまでも多量の交換価値を自分の占有にすることだ。
これは正直なことだ。
私の良心よ、
どうか世間を広く公平に見廻してくれ。
金銭のために行動をしていない人が真に幾人いるか。
なるほど、
「俺は金銭のために活動するものではない、
自分の利益のために奮闘しているものではない、
社会奉仕のために努力しているのだ」
と宣言している人は数え切れないほど沢山ある。
しかしてその人らは信実に社会奉仕を彼らの第一義的の目的にしているだろうか。
自己の利益を少しも考えないだろうか。
今日の世において、
正常なる人間として、
彼らの努力の目的は、
自己の利益または金儲けにあり、
またあらねばならぬと私は高言したい。
バイブルを講義したり、
原稿を書いたりするのも、
パンのため、
すなわち金儲けのためではないか。
社会奉仕の金鍍金をして、
活動の根柢を流れる本流を、
むりやりに隠そうとする人を、
私は最も憎む。
その行為が本能的に発作しない以上、
その行為が理性的である以上、
他人のためにのみなす行為と意識するものでも、
それは確実に利己心より出発しているものと私は思う。
理性の黎明は利己心の黎明ではなかろうか。
〔大正10年5月20日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕