記者のノートから (1)
私の経済観
近頃、経済価値論をよむ。
スミスやマルクスの労働価値論が破れて、
利用価値論すなわち限界利用説なるものが学界に勢力を
私は価値とは何ぞやを知りたかった。
価値の本質が何であり、
価値の当体の何であるかを見究めなければ、
経済価値そのものすら私には分らない。
労働価値対利用価値の学説が、
古今の経済学史を縄の如く
私は近頃、ポツポツと極めて少しづつではあるが、
天体に関する
近世の哲学はカントによりて大成せられ、
カント以前にカントなく、
カント以後にカントがない。
カントは認識をもってしては到底達せられない先験的世界、
すなわち実在世界の存在することを信じた。
それは神秘の世界であり、
理想の世界であり、
価値の流れ出づる本源であり、
宗教、哲学の究竟一乗地である。
しかしかかる先験的、
理想の実在世界すら、
吾等の認識を透してでなければ
私は一定不動の確かなる価値を求めた。 そしてそれを古今の歴史の中に、 東西学者の思索研究の間に求めようとした。 しかしそれは到底不可能事ではないだろうか。 価値の唯物的説明はあまりに浅薄で、機械的で、 到底私には満足されない。 アダム・スミスの価値論も、 カール・マルクスの価値論も、 あまりに機械的で、 私にはその欠陥が眼立って見える。 したがって余剰価値掠奪の社会主義の学説にも、 労働全収権にも無理があるように思われてならぬ。
如何に分配すべきか という問題は労働経済学における重要問題で、 そして今後の社会問題における根本的問題であろうが、 私には価値の本質および発生に関する疑問が解けない以上、 如何に分配すべきか の標準を発見することができぬ。 資本家をなくし、 資本の私有をなくし、 利潤の発生を否定する思想から見れば、 分配問題は極めて末節枝葉に属する問題であろうが、 私にはそう結論を独断するの勇気がない。
かくして、私は今、私の経済学に行詰っている。
〔大正10年5月23日 『名古屋新聞』 2面〕