思想問題講演会の印象

浪山生

二十二日午後、 大谷派布教団主催のもとに、 思想問題講演会が市会議事堂で開かれた。 聴衆約三百人、その中に若い人々は数えるほどしか居らなんだ。 僧服の方が一割もいたろう。 若い婦人が十人足らず、 大多数は所謂いわゆる善男に属する人々らしく見受けた。

第一席に、 加藤咄堂氏が「信か愛か力か」と題して、 宇宙は愛と力の表現である所以ゆえんを懇切に説き、 それを体得するには超理窟の信にらねばならぬと論じたが、 同氏の講談式の演説ぶりと、俗気を帯びた音調とが、 演説の神秘的、宗教的内容にわないので、 単に面白いという位の座興を与えたに過ぎなんだ。

第二席は、 東洋大学長、 境野黄洋氏が、 差別即ち平等といったようなことを管々くだくだしく説明した後に、 愛の活動は動物植物をも人格化せねばならぬと博愛の説教を試みられたはよかったが、 すぐその後に、 「一体欧米人というやつは、 奴と云っては失敬だが、 まあここには欧米人が居らぬから、ザックバランに言ってのけるが、 一体欧米人という奴は……」 と説き出されたので、 不用意にも奴という言葉を用ゆる同氏は到底博愛を説教する資格は無いとの感を一同に与えたのは惜しかった。

第三席は、 東京朝日新聞編輯長、 安藤正純氏で、 文化政策の根本義と題して、 我国の教育事業、 生産事業の充実、 発展のために軍備縮小の必要を説かれたが、 私には余りに解り切った議論であるのと、 のろくさい旧式な演説ぶりに堪えられないで、 中途で失敬して外へ出た。

有体ありていに言うと、 私は以上三氏の演説から何物も得なんだ。 もし得たものがあるとすると、 仏教界の先輩ももう駄目だ、 自己反省を抜きにして人を教えようとする態度の取れないうちは駄目だ、 との感じであった。 それと同時にこの種の演説会には、 各演説後に質問随意の余地を与えることが必要である。 そして講師と聴衆とが真面目に与えられた問題について論戦するように仕向けることが大事なことであると思った。 実を言うと、 私は各演説に対して質問の矢を放ってみたかったのである。 若い気分になって、真剣に論戦が試みたかった。 聴いたままで、 そして飽き足らない気分で退出するのがなんとなく心残りであった。 今後開かるる思想問題講演会は、 近来欧米に行わるるというフォラム式(質問随意)であって欲しい。 この式によれば聴衆は一層啓発けいはつさるることになり、 講師もうっかり出鱈目でたらめが言えなくなるわけである。

〔大正10年5月24日 『名古屋新聞愛知縣附録』 1面〕

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