既成宗教の改造 (上)

大仏教主義宣伝

私どもが、時代の進運に伴わず、 時代の煩悶はんもんを解決することあたわず、 人心の動揺と不安を救済すること能わざるに至った既成宗教の改造を唱道するや、 実に久しいものである。 けれども、 これは難事中の難事であって、 不世出ふせいしゅつの一大人物、 一大偉人の出現にたなければ、 既成宗教の改造は断じて実現されないであろう。 それゆえに、私どもは気永きながにこの偉人の出現と、 これに伴う既成宗教の改造を待っているのである。 けれども、 私どもは新聞記者として、 これに関する気運を促進し得ないこともない。 これ、私どもが爾来じらい機会あるごとに、 既成宗教の改造を唱道する所以ゆえんであるが、 近時、 市内井箆いの、葉山、吉田、鵜飼、赤尾、佐藤の諸君が雑誌 『極楽世界』 を発刊して、 大仏教主義を宣伝し、 既成宗教の改造を策せんとしつつあるを見、 今これに関して、 一言卑見を述ぶるの機会を得たることを喜ぶものである。

死骨の既成宗教

既成宗教、既成宗派の数はすこぶる多い。 多くしてそのはんに堪えないほどに多い。 けれども、 これらは発生すべき時に発生し、 発生するの必要あって発生したものであるから、 これを現時に施して人心を救済し能わざるの一事をもって、 いまにわかにこれを排斥し能わざるは論を待たぬ。 私どもはこれらの既成宗教、既成宗派が過去における文化に貢献したるの功を認めざるを得ないものである。 と同時に、 これらの宗教、宗派は既に過去の死骨しこつに属するものであって、 これを復活し、改造するにあらざれば、 その用を為さざるとともに、 これらの宗教、宗派が自家の偏狭なる教理に囚われ、 相互に反目、嫉視しっし排擠はいせいすることを苦々しく思うものである。

僧侶済度が第一

我国における十三宗五十八派の既成宗教は、 如上発生すべき時に発生し、 発生するの必要あって発生したものであるから、 皆それぞれ信ずるに足るべき教理を有していることはいうまでもない。 こうした観察点より出発すれば、 既成宗教の改造は既成宗教の統一を意味しているといわれないこともない。 井箆君ほか五名の諸君が、 釈迦の教えに帰り、 大仏教主義の下に、 ただに 「各宗各派の仏教を統一」 するのみならず、 更に進んで 「仏教、キリスト教、神道その他一切宗教の綜合統一を行」わんとしているのは、 この意味よりして、確かに是正されることである。 したがって、 彼らが大仏教主義の下に、 「仏教の綜合的解釈により、社会を改造し、極楽を実現」 せしめんとしているのは、 決して一片の空想ではない。 故に既成宗教に衣食しているものは、 ことごとく来ってこの挙を賛し、 この挙を助けねばならないはずであるが、 彼らは、 その宣言の一つとして、 「既成宗教の偏狭固陋ころうなる教義を打破」 すること、 「既成宗教の有害無益なる形式を打破し、 職業的僧侶を説伏」 すること等を宣明しているがため、 職業的僧侶とのみいわず、 一般的なる職業的宗教家が、 かえってこれを忌み、 これを排しつつあるのは怪しむに足らない。 けれども、 かかる陋劣ろうれつなる職業的宗教家があればこそ、 大仏教主義の宣伝が必要となるのである。 済度すべからざるもの、 それ故に、 まず第一に済度しなければならないものは僧侶であり、 牧師であり、 宣教師である。

徹底的民主主義

仏教が一切の宗教の最終的教理であり、 したがって仏教を以て一切の宗教を統一し得ることについては、 かつて私どもが 「改造の基礎としての宗教」 あるいは 「人類間の交渉」 等の題目のもとに、 既に一言したところであるが、 この機会においても、 私どもはまたこれを一言したいと思う。

仏教の最高教理は、 釈迦が言明している通り、 天上天下ただ「我」のみ尊しである。 近代的の語をもって、 これを表わせば 「個人主義」 ともいうことができよう。 しかもこの個人主義は徹底的の個人主義であって、 西洋の諸学者が唱えつつあるがごとき生はんじゃくなるものではないように思われる。 天上天下唯「我」のみ独り尊いから、 ここに各人の平等が断定される。 すなわち近代的なるデモクラシーが提唱される。 しかもこのデモクラシーはまた西洋諸学者の唱えつつあるがごとき生はんじゃくなものではなく、 徹底的なるデモクラシーであり、 むしろ極端なるデモクラシーといって差支えはない。

宇宙的民主主義

天上天下唯「我」のみが尊く、したがって各人の平等が断定されるから、 衆生は皆仏性を有している。 すなわち民衆は悉くそれぞれの方面において至高性を有している。 民衆もつとめてまざれば、 皆それぞれの方面において、至高の地位および至高の権力を有する可能性ありというのが、 仏教の教理である。 否、 仏性を有するものは民衆すなわち人類のみではなく、 狗子くしすなわち動物もまたこれを有している。 否、 啻に動物のみならず、 山川国土草木一切が仏となるの可能性を有している。 これが仏教の最終教理でありとすれば、 仏教のデモクラシーは西洋諸国もしくは近代生活の産物たるデモクラシーのごとき、 単に人と人との間のデモクラシーに過ぎないものなどが、 足下へも寄りつくことのできない広大無辺なもの、 徹底的、普遍的のものではあるまいか。

〔大正10年5月28日 『新愛知』 1面トップ論説〕

目次へ戻る