仏教界の革新運動

東濃生

仏教界の革新なぞと、 今さらこんな言葉を繰り返しても、 読者の耳底に聞き飽きているのであるから、 一向響きがないような気がする。 しかしながら如何に大きい声が叫ばれても、 依然として仏教界は旧態であり、不振である以上、 私はこの叫声を潜めることは出来ない。 更に更に繰り返して叫ばねばならぬ。

時代は教界に先立つことはるか数百里、 時代の指導者として一歩を先に歩まねばならぬ教界が、 かえって時代に指導せられていはすまいか。 否、 時代から実に迷惑至極な足手まといとして嫌悪されているのである。 まことに痛痕の至りではないか、 悲痛の極ではないか?

けれどもまた、ここに一顧を要することがある。 それは単にいつまでも声のみを挙げていることが革新希求者の意志を尽しているのではないことである。 一歩進めて革新運動を現わすべき時を獲れ。 時はとうに疾に当来している。 この時機を逸去してはならぬ。 叫びつつ歩もうではないか。 革新の事実を現出しようではないか。

かつて政治上には維新の洗礼があったように、 我が仏教界にも維新を断行すべき時である。 五十年前の政治上の維新は、かなり大きい根本的革新運動であった。 これに幾多の犠牲もあり弊害もあった。 しかしながらその犠牲や弊害が伴った一面に、 非常の効果があったのである。 革新運動という大きい件に犠牲を惜しみ、 弊害の伴うのを恐れて、 単にその効果のみを得ようとする貪慾な願いは、 事を成さんとするには余りに横着な我儘わがままな願求である。 教界の革新運動にも犠牲や弊害も予め覚悟されねばならぬ。

現在の社会組織においては、 いかなる運動も個人的、各個的では不得策である。 成果を得る所以でない。 革新運動のごときは、 なおさら団体的であらねばならぬ。 その宗派宗派の志を同じうする青年の一つの強固な団体の組織が第一着手の仕事である。

その団体の主脳者は団員の心服する人物であれば結構なるも、 かくのごとき人物は容易に得らるるものではない。 故に高遠なる団員が協力して実現せんとする高遠なる理想信条を中心として団結を強固にするより外に道はない。 同志の糾合、 言論の主張、 経営費の収集等、 困難な問題が多数横たわっているけれども、 運動の実現に伴うて自ら解決せらるるであろう。

〔大正10年5月31日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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