或る友人に送る手紙(上)
——君。 君の雑誌が発行停止になったということを聞いた。 事実とすれば、君にとっては棲むべき家を失ったも同じいことかもしれない。 が、僕は或る意味においてかえってそれを祝福したい。 右について少しく書いてみたいと思う。
今年の春、N町に君を訪れた時、昨日K町に引越されたというので、たがいにその家を探しまわった。
そしてようやくあの天井の低い屋根裏に君を見つけ出したのだ。
古びた労働服のまま
「そうか、じゃ
しかし君に会う時、いつも心強く感じるのは、君は貧しくとも立派に労働者として生活していることだ。
浮浪者として生きている者の主義には、往々にして自己欺瞞がある。
その肉体的と精神的たるとを問わず、働くことを回避しつつ、宣伝そのものを己れの衣食の方便としている者がある。
僕らはそうした
けれども君はその時、悲痛な話ばかりをして聞かせた。
それは君の雑誌に関係しているために落第をさせられた高等学校の生徒の話、勤め先から解雇されて東京に流浪した友の話——。
僕はそれを聴いた時、なんともしれない圧迫を感じないではいられなかった。
正しきものを求めて得られないとするならば、人間は生れて来たということが既に大いなる不幸だ。
君の雑誌によく反抗という文字を見た。 而して君達に言わせばそれは圧迫に対する反抗であるといった。 その時、僕はこれに反対した。 殊に反抗のための反抗を極端にしりぞけた。 なぜなれば、吾々のもっているところの燃焼力は圧迫を感じるような生温かいものではないからだ。 なお反抗なる言葉の裏には弱さと感情の濁りとが含まれている。 非だと思いつつも是だと云いたがるのが反抗である。 是を是と認めて行くところに何の反抗があり得よう。 僕はむしろ反抗なる言葉の存在を呪い、それに値する行為をしりぞけると云った。
〔大正10年6月13日 『新愛知』 「緩急車」欄〕