労働者としての立場

民平

労働者として働いていることは俯仰ふぎょう天地てんちに恥じないのみならず、 誇るべきことである。

われらが現代の社会制度を組織するところのあらゆる階級の如何なる部分にも入り得る能力を備えていながら、 なおかつ労働階級に踏みとどまって直接生産に従事する、 この事以外に美しい犠牲的な、殉教的な行為がどこにあるか。

労働者として吾人ごじんが労働階級に止まり、 あらゆる人類の生活を保証する上について、心得べきことがある。 何であるか。 人類の父としての立場である。

われらは、 われらの愛児が病気にかかったならば、 よし愛児は薬を飲むことを好まないにしても、 薬を強いて与えるであろう。 また愛児の腫物しゅもつを切開しなければ生命の危難きなんがある場合、 眼を閉じて愛児の肉を切開せしむるであろう。 この場合、 愛児は泣き叫んで、 わがあわれを乞うであろう。 しかしながら、われらは考える—— 「この際、この悪性の腫物を切開しなければ愛児は二三日の後には、もう永久に自分から去って行くであろう」と。 そこでわれらは愛児を、 破るるごとき胸の痛みとともに、 醫師のベッドの上に連れて行くのである。

小さな盲目的な愛は、大きな純真な愛によって、その真実の道を見出し、せいよろこびにまで到達するのである。

われらは近視眼的な思索、行為をしてはならぬ。 われらは迷える人類の運命を背負った父ではないか。 高き理想、光ある神の国を常に見て、 如何なる道が真に神の国への道であるかをあやまらないようにしなければならぬ。

愛児の腫物をそのままに放っておいて死を待ってはならぬではないか。 疫痢えきりの病状の明白な愛児にヒマシ油を与えることを躊躇ちゅうちょすべきではないはずである。

もし吾等われらが、 疫痢の病状あり、 なお悪性腫物のあがれる現代の社会悪をそのままに放擲ほうてきするとするならば、 われらは、神の御名によって与えられたるわれらの使命を毀損きそんしたことになるのである。

この結果は明々白々である。 世は恐るべき死の結果を招来しょうらいするのである。 破壊的革命、何物をも建設せざる絶望なる最後の日が来るのである。

こんな絶望なる虚無的な時代を招くことは、 ただわれら人類の大多数を占むる労働階級、無産階級の自覚によってのみ避け得らるるのである。

真に人類を思い、 国家を思うの念は我ら労働、無産階級にのみ許されたる特権である。

われらが毅然きぜんとして独立し、敢然かんぜんとして正義を守ることは、 資本家、権力階級にとって重大なる脅威である。 何故かなれば彼らは、 「不義にして富める」邪悪の空中楼閣に立っているからである。 泥棒は常に警官を恐れるごとくに、 不正なる徒輩とはいは常に正義に立てる人々を怖れているのである。 権力、 資本階級者のうちに、 もしわれらを恐るるものがあるならば、 彼は自分の臓腑中に酸敗さんぱいせる汚物を蓄えていることを、 自ら証明するものである。

権力、資本階級中にも、 われらと同じ大地に立ち、 神の国よりの光を見出せるものもある。 彼らはそのことによってわれらと同じ道を歩むためにわれらの仲間となりつつある。

われらが神の国に到る道を歩むことを拒む人があるならば、 われらはどこまでも彼らを教え導いて、 人類の辿るべき道がどこにあるかを示さねばならぬ。

人権蹂躙じゅうりんが神の国へ到るの道でなくて、 温健おんけんなる労働運動が、 それのみが人道である所以を示すべきである。

この一文を産みの苦しみのうちにある向上会員諸君へ呈す。

〔大正10年6月26日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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