市長問題の素人観
水野昌蔵
静かに心を落ちつけて自分を反省すれば、私にはありあまる矛盾があり、煩悶があり、嫉妬があり、不平がある。殊に自分の思索と体験とにはその間に真摯なる連絡は少しもない。かく私の大それた未成品なることに気づいた場合、私には自己完成のほか何物にも考慮する資格を持たない。しかし私は性来物事に感じやすい。而して深く感じたものは自己の内面へ奥深く這入り、含蓄して私の内部生命を分化発展させる。かくて一節を生長せる内部生命は、ただちにそれの外面的投射を欲求し、その内部経験のうち殊に色彩の強い部分の表現を望む衝動が強くなって来る。
いま私の内面にはこの衝動が盛んに燃えている。故に私を構成する極めて差誤の多い外面的生命の全部を棚の上にあげて、純なるこの表現的衝動の働きに依ってこの文を書こうと思う。
今日の社会的環境のもとに必然的関係を結んで生き、少くとも何らかの社会的貢献をなして男らしく活動を継続して行く紳士(道義的紳士ではなく一般紳士)としては彼らが活躍のエネルギーを恢復させるために、妾を置いたり、茶屋遊びをしたり、美妓に酌をさしたりすることは、当然なことだとは云えないが、止むを得ないことだと思う。
不徹底な道義的観念に把束せられている人々の中には、或いはかくのごとき行為をする人々を紳士として認めない人が沢山にある。しかし私にはそれらの歓楽をする紳士を無条件に弾劾する事はできない。あえて奨励するものでもなければ、また当然なこととして認むるものではないが、止むを得ないこととして認めたい。
けれども、市民を代表する紳士が、市民の幸福を計るべき議事を料理屋に持ち出し、藝者を侍らして為すことを、止むを得ない事として認め得られようか。……料理屋や待合で賭博をする連中が、その勝負を円満に解決させるために藝者を侍らしておく必要があるそうだが、名古屋の市会もその議事を円満に調停して行くために、わざわざ八事の八勝館まで持ち出し、藝者を侍らすことを必要とするのか。問題の善悪はさておき、それほどの必要があるのか。
殊に市民の幸福に絶大の関係を有する市長を選定する場合に、藝者が内職をなすに必要欠くべからざる物件をもって、投票紙として代用するがごときは、何んたる醜態であろう。
かかる事実を聞いて黙している市民は、どうしたのだろう。
資本主義経済組織のうちに在る以上、新聞事業もその最大の目的は営利に相違ない。ゆえに或いは資本家の走狗となり、或いは金に依って議論を左右することは、ある程度までは新聞紙としては止むを得ない事であるかも知れない。しかし顕然たる事実をむりに陰蔽して曲筆を弄したり、相手の新聞に対して、あまりに野卑なる皮肉や悪罵をあびせかけたりすることは、それをする新聞の権威のために少しでも役立つことだろうか。又それが営利のためにも万全の策だろうか。
相手を理会させようとする心組なく、むやみに相手を傷つけようと努力している社説、罵詈や嘲弄の言葉で満ちた記事、真実が裏付けないような論説などを読んで、吾々市民はどんな印象を残すのだろうか。
去る二十五日のある新聞紙上に、「傍聴人が静肅なる態度を持して市会の神聖を汚さなかったならば温厚なる大喜多議長何ぞ彼らの退場を命ぜんや」と論じてあったが、傍聴人が静肅な態度を持し得なかった責は全部議員や傍聴人らのみにあるものだろうか。議長たる職掌の目的は何ものにあるのか。傍聴人を入場せしめては、議事の進行の出来ないような市会に何の価値があろう。
さらに同記事の結論として、「いやしくも戈を取って両々相対す、敵の虚または敵の寡に乗じて、これを潰走せしめんとするのは戦闘上まさに然るべきことであり、その間何ら責むべきの理由を発見しない。徒らに宋襄の仁に駆られて、敵に乗ずべきの間隙を与えたならば却ってこれがために逆襲され、往々にして思い設けぬ敗北を見ることがある。智将はこうした愚を演じない」とあるが、市政を弱肉強食の戦闘とかく無条件に比喩して妥当なことであろうか。政治の標準はかくのごとく策戦にあるのか。自治政治の本領は一挙して敵を屠ることにあるのか。
政治的デモクラシーはおろか産業的デモクラシーまでも要求せられている今日、かく高圧的市政を賛美している記事を読んで私は一種いやな感じに打たれた。
名古屋人ほど保守的因襲的で嫉妬心に富む市民は他に少いであろう。特に旧式の金権がはびこるのは名古屋の名物である。かかる土地の市長となって真面目に政治的正義の本道を逸せずして職を完了することは至難な事に相違ない。少数の富豪の機嫌をとり媚び諛らっていなければ市長の椅子は直に取り去られてしまう、なんたるあわれさであろう。
いかがしたら我々名古屋人は市民の公僕なる真の市長が得られるであろうか。(1921・6・25)
〔大正10年7月1日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕