二つの道: 労働争議の考察 (1)

葉山民平

英国に起った炭鉱夫同盟罷業、足尾に端を発して大阪に火花を散らした労働争議は、名古屋においては名古屋らしく行われた。

資本主義者と、労働者との間には、超ゆべからざる溝が掘られてある。今までもそうであったように今後もそうであろう。

各々おのおのは別な世界を見守っている。

資本家および権力階級は現代の社会組織が永久に、自分の傀儡かいらいであり、少くとも自分の存在のための存在であるように考えている。

労働階級、無産階級は、社会組織を民衆的なものに改造しようとあらゆる努力を払っている。そこで双方の間に労働争議が勃発するのである。

同一の人間の心持が、シルクハットにフロックの時と浴衣ゆかたに兵児帯の時と、自然ひとりでに違ってくることは事実である。同じ眼が近視眼鏡をかけた時と、老眼鏡をかけた時、自分の頭に映ずる同一の対象が異って見えることも事実である。

同じ人間であり、人類の一員である人間が、その思想、信仰、環境によって、別々な生き方をし、又しようとしていることが、紛糾した現代の社会組織を産んだ胞子である。

現代の社会制度、資本主義経済の下にある社会組織が、善であるか悪であるか、愉快なものであるか不快なものであるか、考えてみよう。

善悪の批判を宗教的な立場として、快・不快の区別を唯物的な立場に置いて見ると――

神を信じ、仏を信ずるものは、他人の不幸に対して冷淡では決してありえない筈である。人類のあえいでいる不幸のために、最初に仏を信じた釈迦は出家した。また最初に神の意志を知ったイエスは十字架上に血を濡らした。

イエス、釈尊が、出家し、十字架につかねばならぬような、社会悪が現代にはちっとも無いのか。人類の中で一人でもが幸福で無いということがあれば、現代の人類の中からも釈迦やイエスが出る筈である。で、多くの釈迦やイエスが現に我々の生活している地上で出家し、十字架にかかりつつある。と同時に同じ位のユダが現れて使徒たちと争っているのである。

労働者は与える生活であり、資本家は奪う生活である。一日のこの生活が一月、一年、数年と継続して行く間に、その各々がどんな心的境地を形造るかは、明白な事である。

今までの殉教者がそうであったように、正しい者の存在はいつでも正しくない者によって迫害されるのである。これを労働争議の方面にめて見ると、挑戦者はいつでも資本家側であり、権力側である。生きるための、最も謙譲なる、かつ正当なる意志は、傲慢なる、かつ貪欲なる思想によって打破されるのである。

われわれ人類の歴史の中で、真剣な信仰を持った者は、十字架にくことを免れるわけには行かなかった。そして現在でもそれが行われており、未来もやはり信仰ある者は十字架に追いやらるるであろう。

いつでも与うる者の存在して居ることは、奪う者にとっては邪魔である。それが無くては自分が存在することができないにもかかわらず、やはりそれを邪魔にするのである。

労働運動において、与うる者であることを自覚し、この信仰によって運動する者は目的を、人間の神性に置くのである。そしてその要求するところは、資本、権力階級の人間的の覚醒である。同胞を飢餓に陥れ、寒さに凍えさせ、その家族を不潔な路次内で悪疫に倒れさせることは、君たちがますます神の国に遠ざかることだと言うのである。もし君たち資本、権力階級の人たちが、人間であるならばその兄弟を、これほど虐げるのは良くない、と言っているのである。

〔大正10年7月11日 『名古屋新聞』 2面〕

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