富豪の偽善

山田親義

労働問題はついに階級争闘を、階級争闘はまた○○的社会主義と形が漸次悪化して、人心は動揺せんとしている。 この時にあたって各所の富豪が、あるいは数百万円の巨額の金を投じて学校を建てたり、あるいは数千万円の公益団を設立したりして、社会人心の視聴を奪うようになって来たのは故なきにしもあらずである。

私共は、その一部の富豪のなす行為に讃嘆さんたんあたわず、こうした思想、こうした行為が全富豪に波及して行ったならば、期せずしてこの社会は吾人の夢想するユートピアを現出するであろうと喜悦したものであった。 実際、現今の社会を救うて、人間らしい生活の中に吾人を置かしむる者は、決してこれ以外にはないと思っていた。 労働と資本——それは現代の制度、現今の社会では、これを認めないわけにはゆかない。 労働を資本に看做みなすことは、この社会では許さない。 こういう見地からして人類相互、温かみある生活をなして行くには、富豪の力をらねばならないのである。

社会は人間の住むところである。 お互いに喜び悲しんで五十年を経過しなければならない世界であるとともに、喜憂をわかって生活すべき世界に、一人は人間らしい生活をなし、一人は苦しい死よりも悲しい生活に気息きそく奄々えんえんとしておるのはたしかに皮肉であり、不合理である。 強い者は弱い者を導きて助け、弱い者は強い者と道伴みちづれになって、おたがいに各々個性を伸ばさしめ、社会の福利、人類の幸福に貢献してこそ、意義ある世界であると云わねばならぬ。

世の富豪は、その人の汗と能力とによってたものではあろうが、しかしそれは幾多の人々との交渉によって初めて獲られたものであることを忘れてはならない。 そうして富豪なる階級があるほど、その逕庭けいてい甚だしければ甚だしいほど、惨めな敗残者のあることを知らなければならない。 これは経済学の一頁を読む者のひとしく首肯しゅこうするところであろう。

富豪の社会奉仕。 何という美しい響きではないか。 けれども私共は、次に何となく物足らないものがあった。 その全財産を投げ出すこと、それである。 私共は、それを怪しいものだと思った。 人間らしい生活を保証し得られるだけを除いた額の奉仕が望ましかったのである。

俄然がぜん、数日前、内務省は大阪原田某の設立した公益団の取消解散を命じたと新聞紙は伝えている。 それが大蔵省の租税に関係した事故であると聞いた私達は、ほとんど驚愕、度を失わされた。 聞くがごとくんば、原田某の公益団のごときは積立金と理事の俸給を差し引くと、年にわずか数万円しか残らず、 その全基金の当然課せらるべき所得税は二十数万円であるという。 実に二十万円の利益を得、基金には別に種々の保護を与えられているという、二重の利益のために為した偽善であったという事実が闡明せんめいになった。 吾人はこれによって富豪の社会奉仕もよほど注意して聞かねばならないのを遺憾に思う。

明治初年、金で爵位も購えるという俗謡が人口に膾炙かいしゃせられたと聞くたびに、常に私はいやな気分にならざるを得なかった。 今はそれが社会奉仕の名に隠れて、財産の保護を生ずる——と思うと、その心に一種憐愍れんびんの情を感ぜざるを得ない。 人間が生きている以上の自己の財産を無償で社会に提供することは、堪えられないことに違いない。

けれども、その堪えられない犠牲を爵位や売名や乃至ないし利益のためにするのは看過してはならない。 いわんやその動機が脱税の目的である時においてをやである。 偽善! 幾多富豪の公益団も遂に偽善で終ってしまっている。 由来、富豪は種々の方法で財産より生ずる所得税の軽からしめん事に孜々ししとしている。 そうしていつまでも労働者の労働を無造作に奪わんとしている。 たまたま社会奉仕に力を尽すものがあると思えば、それは脱税の目的か爵位を貰わんとする動機である場合が多い。

世は滔々乎とうとうかとして進化してく。 昨日の思想は今日、ことごとくそのまま認めることができない。 今日の理想は、明日これを語る場合には、よほど権威をがれていることを知らなければならぬ。 労働者の思想は著しく進化してきた。 もう労働者をだます偽善では彼らは満足しない。 いな、それによると憤怒をあがなうている事を知らなければならぬ。

吾人はくて吾人の描くユートピアに達する日の前途遠いことを悲しむものである。

〔大正10年7月18日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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