『動揺と不安』
『動揺と不安』とは近日東京の
さて私はこの書を校正しつつある際、右三箇年間における私の思想が如何に変化したかにつき、むしろ驚かざるを得なかった。
けれども翻って一考すれば、動揺しつつあるものは、独り私のみではない。 戦後世界は今動揺と不安に悩みつつある。 この世界に棲んでいる一人の私だもの、どうしてこの悩みを悩まないでいられようか。 然り、最近三年間における私の思想は動揺に動揺を重ね、そして私の生活は不安に不安を重ねた。 私はこれがために今もなお非常に煩悶しつつある。 けれども、これが世界の悩みである以上、その世界の悩みが取除けられなければ、私の悩みもまた取除けられない。
動揺と不安の結果は煩悶であり、矛盾撞着であり、少くとも妥協互譲である。
あるいはまた笑うべき行詰りであるかもしれない。
私は曾てデモクラシーに反対した。
そして吉野博士の民本主義の錯誤を本欄で指摘した。
それは猫も
けれども、曾て本欄に述べたるごとく、私は今もなお「人生即矛盾」と思うものである。
人生は矛盾していればこそ、興味がある。
矛盾しない人生は概念に過ぎない。
人間は生れながらにして、二元に支配される。
最近、或る友人の勧めによって、スティブンソンの『ドクトル・ゼキールとミスター・ハイド』を読む。
そして悪の権化たるハイドが如何に煩悶なく、且つ不動の勇気を有しているかに驚くと同時に、善の権化たるゼキールが如何に二元のために悩まされ、むしろ憐れむべき眞理状態に在ることを悲しまざるを得なかった。
けれども、私共は人間として生れた以上、そして何らかの善をなそうとする以上、二元に悩まずにはいられない。
二元こそ人生の真態ではあるまいか。
動揺と不安、矛盾と煩悶、これが人間の
こういえばとて、私は絶対の悲観論者ではない。 私は進化ないし進歩はリズムであると思うものである。 水は一高一低の波をなしつつ川を経て、海に注ぐ。 そこに水や川の生命があるように、私共の思想や生活もまたこうした高低のリズムを経て進化し、進歩するのである。 老人の思想や生活は硬化して動揺しないが、子供や青年の思想や生活は柔軟性、屈伸性を有するがため、常に動揺し、不安を感じている。 さればこそ彼らは有望なる将来を有するのである。
以上、私は私の著書を出版すべく、あまり自らを是正しすぎた。
あまりに自らを弁護しすぎた。
けれども、人間が何か事をなそうとすれば、多少の自己是正、自己弁護がなければ、心もとなくて、何事をもなしかねる。
それが即ち自信というものであるという
〔大正10年7月29日 『新愛知』 「緩急車」欄〕