凡人の受難時代: 苦しみを透して輝やく喜び

現代人は、苦しみを透して輝やく喜びを体験しなければならぬ。単なる悦楽や、苦しみを通過せざる享楽は、現代人を堕落させるばかりである。真の喜びは、真の苦しみを透して輝やく。端的に、率直にいえば、真実の苦痛に徹底するところに、真の喜びがある。その意味において、現代人は凡てが尊き受難者であるべく覚悟するを要する。

歴史の上に現れたる受難者はかなり多い。キリストは十字架上にその血を流した。法然も、親鸞も、日蓮も、道のためには流罪となり、法難を得て、それぞれの時代における尊い受難者であった。しかし、現代はすべての民衆がことごとく受難者とならねばならぬ。明治維前の大業は、あの当時の武士階級に溢るところの勤王の精神によりて、それぞれの受難者によりて成就された。けれども現代の一人の優れたる釈迦や、基督や、ないしは法然親鸞日蓮のごとき人々の受難によりては救われない。現代はすべての民衆が、自ら受難者となることによりて、真実に救われるのである。われらは、労働争議における無数のかつ無名なる受難者の輩出によりて、新らしき時代の生れ出づることを期待する。

生命のなやみ生活の苦悩、これが現代の社会、各人をおおうところの実相である。自己に目覚めたる多数民衆が、長き間虐げられたる自己の生命を顧みる時、何人なんぴとか暗然として涙なきを得よう。生命のなやみを体験し得ないものは、生活の価値と意義とを理解しないものである。人生の苦痛を経験しないものは、人生の幸福を知らないものである。今、わが国の労働者を見舞いつつあるところの労働不安、しかしてそれより回避せんとするところの労働争議は、この意味において、人間的なる苦しき試練を経験しつつあるのである。

苦しみの底より、新しき世界は生れる。労働争議において、多くの犠牲者が、すでに今日まで数限りなく輩出した。無名の受難者が、あしたに、ゆうべに、われらの友人から、われらの隣人の間からも生れつつある。世間はそれをただ何の気なしに、平凡なるまなこをもって眺めているだけである。けれどもこれらの受難者の犠牲によりて、どれだけわが社会的正義が保存され、維持されているであろうか。労働運動をもって無自覚なる多数労働者の雷同的発作性の現象であると見なすならば、それこそ現代を理解せざるの甚だしきものである。彼らは、虐げられつつある彼らの階級のために、もくしてやむことが出来ないのである。彼ら自身のために、彼らの階級のために、而して社会全般の正義のために、労働運動を起さざるを得ないのである。その手段方法において、時に現代の社会秩序維持の方面から見て、非難さるべきもののあることは認められる。しかし手段方法の是非のために彼らの精神を没了ぼつりょうしてはならない。

現代は凡ての労働者、凡ての民衆が、悲しき生命のなやみを経験するの覚悟を要する時である。真面目なる生活を維持してゆくことは、誰人たれひとにとりても一つの苦しい試練である。その意味において凡ての人間はことごとく尊き受難者でありたい。尊き受難の覚悟は、区々たる物質生活を追及するものは到底思いも及ばざるところである。一つの示威行列は悩める生命の合奏である。決して無自覚なる烏合うごうの団結ではない。個々の苦しき生命が、自由と正義との要求に、しっかりといだき合って一つにまとまったのが労働者の示威行列である。

これらの運動から威嚇いかくを感ずる階級はあるであろう。いかなる場合にも威嚇は不気味なものであり、不安である。しかし労働運動の与える威嚇は正義と自由との威嚇である。他人から意見せられる事はかなり苦しいものである。その意見が、自分にとりて誠に当然なる、かつ善意の意見であっても、苦しいものである。政治家や資本家や支配階級者は、労働者の正義、自由の立場からする要求に耳をかしたくないのはもとより感情、利害の上から見て然るべき事であろう。しかし資本家も反省しなければならぬ。政府も反省しなければならぬ。生食の苦悩を感ずるものは、今日においては、ひとり労働者ばかりではない。一般民衆ばかりではない。資本家も、富豪も、政府も、政党も、官僚も、軍人も、すべてが苦しまねばならないのである。

凡ては苦しめ、凡ては真実の苦しみを苦しめ。真実の苦しみを透して喜びはあふれる。その意味において、現代は凡ての人々が受難者となるの覚悟を要する。凡人の受難それは誠に尊むべき現代進歩の犠牲ではないか

〔大正10年7月30日 『名古屋新聞』 3面トップ無署名論説〕

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