文藝の社会化に対する一考察 (1)

藤澤清

文藝の社会化、もしくは社会の藝術化ということが、近ごろ一部識者によって提唱される。これは今日まで数多く唱え来られた社会改造に対する意見、たとえば、共産主義とか、組合社会主義とか、その他いろいろな名前の冠せられた社会主義等のごとき、私達の物質的生活の改造を目的とするものや、既成宗教の復活、もしくは改造、あるいは新宗教の樹立とかいうがごとき精神的社会改造論の中で、最も本質的な意義のある主張であると、私は思うのである。

私達の社会が、あらゆる意味において、極めて不合理なものであることが、痛切に感じられるに従って、それらの社会改造に対する主義が、きびすをついで現れ、互いに刺しあいながら、ちょうど生殖作用を持たない下等動物が、個体の分裂によって新しい生命を創り出すように、一つの主義は、二つに分裂、さらに三つに分裂しながら、今日に至った。しかしながら、そのように多くの意見が続出し、その一つ一つにおいても驚くべき精力が傾注されて来たにもかかわらず、それの程度に私達の社会生活が改造されないのは何故であろうか。

依然として私達は、不合理なる社会組織のもとに、虐げられたる生活に甘んじ、それらの多くの、社会改造についての意見が、縁なき抽象的論理とのみ思惟さるるは何が故であろうか。

これは私の考えによるならば、多くの社会改造論者が、その由来する根本的欠陥を忘れ、徒らに、枝葉の問題のみ論議して来たためではあるまいか。

たとえば、私達の肉体に或る毒素が潜伏して、それが色々な個所に現れて、私達を苦しめるとき、賢明なる医師はおそらく、その外面的局部現象に対する弥縫策を配さないで、まず徹底的にその毒素の排除に努めるに違いない。

かくのごときことは、以て私達の社会組織に及ぼすことができる。しかるに私達の代弁者は、徒らに枝葉の問題を論議することに急にして、毫も本質的な或る物に触れなかったことは、悲しむべきことと云わなければならぬ。

が、しかし色々な学説も、始めて一つの学説として現れたときは、多くは不完全な杜撰なものであるけれども、時が経過するに従って、それらが次第に修正せられ、全きものに近付いて行くように、私達の社会改造に対する学説も、近来に至って次第に価値あるものとなって来たことは否定し得ない。即ち局部的な外面現象より、次第にその核心に喰い入ろうとする傾向を私は認めることができるのである。

哲学上における、経験論や実証論が勢いを失って新理想主義を産出したように、社会改造論も明かに物質的より精神的へとおもむきつつある。

〔大正10年8月5日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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