貧乏理想論 (1)

鵜飼桂六

本論は小林橘川氏が私に与えられた題目でありまして、去る八日萬松寺にて講演いたしました趣意の大体に若干の修正を加えた所のものであります。

諸君。

近代社会におきましては貧乏人は常に正しくかつ幸いでありました。すでに貧乏人であることそれ自身が、いかに慈悲に富み、かつ無欲恬淡てんたんであるかを立派に証明しているのであります。このゆえに今日こんにちの社会運動は、貧乏人が金持ちとなろうとするのでは駄目でありまして、かえってその反対に、貪婪どんらん飽くなき資本家を清貧に居る労働者の境遇にまで引下げるということが真に徹底した所の純理であります。すなわち一切の持てるものをすべて棄てさせるというのでなければ、いつまで経っても世の中は闇であります。もっとも、これは理想でありまして、現実とはすこぶけ離れているかもしれません。けれども、そういうことを言っていつまでもこの理論を空想と嘲笑しているのでは、折角せっかくながら人類の究極理想は到底とうていその滅亡の日でなければ実現し得ないことになりますから、ドシドシ最善であると思った道を真驀地まっしぐらに突き進んで行くの外はありません。――自分のことを申して甚だ恐れ入りますが――私は今絶対に無一文で、そして完全に無力で、無宿むしゅくであります。別に実家にさえヂットして居れば、断じて食うことには困らないのでありますが、私にはその化石のごとき生活が苦しいのであります。人の苦しみをよそにして自分独りが楽しみをするというようなことでは決して人は動くものではありません。私はこう確信しておりますから、未だかつて一度も酒や煙草たばこを口にしたことがないのであります、いわんや女をやです。なるほど私とても人間であります。時には寂寥せきりょう孤独の悲哀をも感じます。けれども私はそこに偉大な自然の恩恵を感ずるのであります。

諸君。

私にはペンを持つための手と、大地を踏むための足があります。またそのほかに空気を吸うための肺もあれば、物を見るための眼もあり、野の香りを味わうための鼻もあれば、音楽を聞くための耳もあります。このように私には盲目もうもくにはない眼や、おしにはない口や、つんぼにはない耳などが、シッカリと揃っております。もしこれ以上不平を言うならば、私は直ちに天帝に殺される運命を持っております。そこで私は考えたのであります。現代の社会に煙草だとか、酒だとか、阿片アヘンだとか、麦酒ビールだとか、公娼こうしょうだとか、藝妓げいぎだとか、というものがあって、そのために如何に多くの人間が金力や権力の暴力を認めるかということであります。これは単に経済組織や政治組織が不合理であるというような所から来ているものでは断じてないのであります。人間の心の奥底に真実に宗教心、道徳心というものがないからであります。この点はまことに重大な点であります。この点から現代の資本主義や一切の物質文明を否認するのでなければ、結局人間は永遠にパンの奴隷となって暮すよりほかにないのであります。

かつて英国にトーマス・マルサスという有名な経済学者がありまして、「人口論」と題する本を著し、その中で「産児制限」を唱えたことがありますが、これは「唯物史観」すなわち「物質主義」の解決法から言いましても、まことに理に適した説だと申すことをるのであります。何故であるかということは余談にわたりますからめておきますが、これを精神主義すなわち宗教方面から申しましても、人間が多くの子をもうけるということは、余りホメタ話ではないのであります。動物でも下等な動物ほど無闇むやみ矢鱈やたらと繁殖するものでありますが、人間が今少し人間らしくなるためには、どうしても性欲を抑圧するよりほかにないのであります。よく私がこう言うと――私は無産主義者です――空想家だと言って笑われますが、実際人間が罪悪を犯す根本の動機は、資本主義の如何いかんにもあずかってちからありますが、もっとその奥には、男が女を恋し、女が男を愛するという所から出発しております。これは人間生活上唯一の謎でありまして、男女が断じて肉欲的の交際を絶つのでなければ、社会の種々な難問題は決して解決しないのであります。この意味において宗教心や道徳心の必要が起って来るのでありまして、ここまで到達したものでなければ、まず凡百の社会改造論は「あっても」「なくても」どうでもよいという結論を得ます。そこで私はここに断乎として宣言いたします――「恋は不神聖であり、肉交は人間生活の最大の罪悪である」と。

〔大正10年8月15日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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