偉大なる顎と其の臨終の苦悶 (上)
葉山民平
C・ディッケンスが、ア・テイル・オヴ・ツー・シティーズの巻頭で
「それは最善の時であった。それは最悪の時だった。叡智の時代であり馬鹿の時代であった。何々何」と云って、次に「偉大なる顎」のことを書いている。
ディッケンスに依らなくとも正しく現代はその通りである。
何が何だか薩張り分らない時代の事であるから、そこへ持って行ってどんな形容詞でもくっつけ得るのである。そして結局何が何だか薩張り訳が分らなくなったところで、「偉大なる顎」が厳然として雲表に聳ゆるのである。
偉大なる顎を別名として資本家と呼ぶ。
偉大なる顎は、その顎の上下に驚くべき頑丈な牙を有する。偉大なる顎はそれに正比例する雄大なる胃の腑を有する。そして結局これらの偉大なる造作を以て建設されたる資本家どもは、結局いかなる物も食うことに興味を持ち、それを飲み込み消化し、便秘することに最後の法悦を見出すのである。
そして、そこで資本家どもは肥え、脂切り、もの憂くなり、怠屈になり、何がな俺様の歯に合わないような大きくて固いものは無いかと反身になって探し廻るのであるが、悲しい哉、この怪物の口に会っては国家さえも光を失ってしまうのである。軍艦、兵隊の缶詰、鉄筋コンクリートの家、大鉱山、炭山、それらに附属する貧弱なる顎ども。いやはやとても並べ切れるものではない。
かくのごとく巨大なる怪物が、のそのそと歩き廻り、跳ね歩くにおいては、自らそこに恐慌が起らざるを得ない。
読者諸君はここに一つのカルカチュアを頭の中に描かれたであろう。
私は、この偉大なる造作をもって雄大に造り上げられたる怪物が、如何に轟然たる音響とともに倒れるか、何故倒れねばならぬかを物語りたいと思う。
同じ樹木が切り倒される時でも、大きい方の木の倒れるのは、小さい木の倒れるのより大きな音を立てる。同じ石橋が落ちるにしても、大きいのが落ちる時は小さいのよりも大きい波紋を作る。
また、同じ人間でありながら、偉大なる顎の個人的死は、貧弱なる顎の死とは比較にならない大きい葬式をもって終末づけられる。そして華美な賑やかな葬式は、参列するものをして、葬式の本質的意義と反対なる感情である「誇り」と「歓び」を齎す。多くの場合、喪主にすら、「俺はこんなに奢った、荘厳な、金のかかった葬式で死人を送ることができる。これは死者にとって唯一の慰藉だ」と、有頂天に喜びを感ぜしめる。
一つの柩の次に、数十台の自働車が喜びと誇りに輝いた顔を載せて、ブーブー駆け出すのは悲惨なる滑稽である。
資本主義の要素はすべて、この悲惨なる滑稽をもって成立ち、「赤き血の笑い」をもって見詰められているのである。
第三者として資本家の無茶さ加減と、冒険さとを見ている時は、それはまさしく悲惨なる滑稽であるに相違ないが、貧弱なる顎として、乃至は全っきり顎を所有しない、労働、無産階級の一人としてこの怪物の偉大なる顎と牙と、その脂切れる図体とを見る時、兄弟よ! われらは肌寒くなって来るのである。
この地上に存在する生物の異種族間の争闘――動物と植物、国家と国家とのそれ、または人種類間の争闘――これらのことをわれらは八釜しく聞く。が、誤魔化されてはならない。人類に運命づけられたそれらの争闘の中の或るものは過去に属し、或るものは未来に属しているのだ。そして現実に俺達の存在を脅かすところのものは、われらを駆って絶望なる死の、永劫の暗黒に追うところのものは「大なる顎」の暴虐である。
一つの鯨が数万の鰯を吸うように、俺達の数万の生命と労力とを吸収してしまうところの資本主義の誤謬である。(八字抹殺)
(三行抹殺) 彼らはあらゆるものを自分の偉大なる顎を通じて、その雄大なる胃の腑に送り込むことを、あらゆる機会に覗っている。
人類が地上で天国を作ろうとする意志は、資本家どもがその偉大な顎をパクつかす間は実見することができない。
〔大正10年8月22日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕