欠陥に充てる社会 (上)

東京 濱島生

人間の生活は種々の欠陥を持っている。 一面から見れば、これは特徴ともいい得られるかもしれぬ。 しかし我々はこれを特長と認めるだけの勇気を持たぬ。 この事実は通常新聞の社会欄に明瞭に表れているが、ただに社会欄のみならず、政治欄、経済欄およびあらゆる所に明瞭に書かれてある。

人はただ裁判事件を目して欠陥の暴露だと称しているが、裁判はそのうち法律という網にかかった、ほんの一些事にすぎない。 今そのうちの重立ちたるもの二三を記して、以て悠々先生足下に呈せんとす。

(1) 誤れる夫婦関係

本月八、九両日の本紙本欄に掲載されたる 「君子さんに答う」 というのは、現在夫婦関係の欠陥を雄弁に語っている好事実でしょう。 俗言に 「結婚は誤解によって成り、夫婦は喧嘩すべきものだ」 と云っているが、これは日本あたりの結婚方法なら、こうならざるを得ないであろうと思う。 たとえば二人の男女が経歴、思想を異にし、何らの自覚も無く、只管ひたすらに金銭の欲望を満足せんとし、また男子は女子そのものに対して何らの理解なく、牛馬のごとくこれを追い使わんとし、女子は女子で男子に対して無理解であり、遊んでいて食わせてもらいたいと思い、これより以外何ものをも欲しない婚姻が、こうなるのが当然の結果である。 しかのみならず、日本の現在のような婚姻方法——服従結婚の方式を脱せないうちは、例えば自己の自由に婚姻せんとすれば、きっと濱田榮子のそれの如く、そこに不自然な虐げをなす者あるは自明の理であろう。

女子に纏足てんそくなさしめて、家外一歩も出さず、一家より他家へこれを売買する場合には、女子は男子の所有物であったであろう。 また男女七歳にして席を同じうするのは、危険が多かったかもしれぬ。 しかし我々が社会とか、共同生活とかに思い及んだなら、それは人間の人格を無視した行為であって、女もまた人であるから男子同様のあらゆるものを——法律的にいえば権利義務を——所有せしめる必要があろう。 それには男女共存共益でなければならぬ。 それをするにはどうしたって、結婚を理解的にしなければならぬ。 さらにさかのぼって考えれば、未婚の男女を開放して自由に交際せしめるに限るのである。

現在の日本では、未婚の男女が交際すれば、すぐに妙な感情をもって眺められ、またその交際したる男女も自ら妙なところへ落ちて行くのは、一つには個人としての男女が悪く、二つには社会に欠陥があるからである。 恋愛だ、理解だと叫んでいる者の中にも、こうした事実を発見するのは、真に人間生活を理解し得ないからだと思う。 これを要するに、家庭の悲劇は十中八九、社会の男女交際を危険とする点と、誤れる婚姻より胚胎していると思う。

(2) 誤れる宗教観念 (上)

「宗教は人間の弱点に付け入る寄生虫である」 とは私の友人K君の意見である。 彼の言をかりていえば、 「宗教は無智なる者にとっては共存能力があるけれども、自ら思考し得らるる人間にはむしろ無用の長物である」。

而して私はこれに同じて次のごとく付言した。 「宗教と信仰とは別物である。 如何なる人間生活にも欠陥がある。 これを補うために信仰は必要であるが、宗教、殊に宗教的信仰、換言せば外界の神性とか仏性とかを考えるだけならばよいが、これを絶対なるものと信ずることは何らの価値なきことである。 さらに人間は懐疑せよ。 懐疑を信じて仰げよ。 これこそ即ち信念である。 宗教的信仰の中にても、寺院、教会、讃美歌、読経、礼拝、供養等は我々にとっては誤れる宗教観念だと思う。」

かく云えば、人あるいは私を無神論者だというかもしれぬが、そういう哲学じみたことをいわないで、ただ我々には信仰なるものが出ないのである。 殊に一部の論者のいうがごとく 「信仰は人間生活の最高至純なるものである、殊に宗教的信念がそうだ」 ということはどうしても思えない。 むしろ信仰は、これを利用して、社会道徳の基礎観念たらしめ、共同生活の方便たらしむるにある。 宗教信仰は目的にあらずして手段であり、目的は人間の共同生活あるいは個人生活の慰安にあるのだと思う。

私は今年の内務部長会議だったか、理事官会議たっだか忘れたが、簡易保険の各府県の状態を諮問した場合、富山、石川、福井あたりの県から政府に向って、 「当地では宗教が盛んでありまして、わずかの金が貯まっても、すぐ寺院に寄付して、保険の成績は至って悪くございます。 何とかこれに対して政府でよい処置を取って下さるわけには参りませんでしょうか」 と問うた事がある。 これに対して政府は 「事宗教に関する事だから、どうするわけに行かぬが、適当な方法を講究することに致しましょう」 と答えた。

〔大正10年8月28日 『新愛知』 「緩急車」欄〕

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