無産者宣言 (上)
鵜飼桂六
過去数千万年間、生物学が溯り得る限りにおいては、人類の如何なる時代にも、富が生活様式の正規な状態であった事はなかった。
そはただ近代社会の特産物としてのみ、これが無意識的承認を観たに過ぎない。
有史以前は固より、有史以後の原始時代、自然時代、未開時代、蒙昧時代、野蛮時代においても、人類が人類相互の間に発見し、工作し、生産せしところのものを、各自勝手にこれを所有し、蓄積し、秘蔵するということはなかった。
よし単なる利権の衝突のために鬩ぎ争い且つ戦うにしても、その和睦は直ちに一瞬の間に調った。
然るにその後、歴史は変転して、世は文明時代となった。
貨幣は出来た。
蒸気機関は出来た。
汽車は出来た。
汽船は出来た。
その他一切の軍艦、水雷、電線、電話、飛行機、潜水艇は出来た。
否、さらに光学は発達し、熱学は発達し、電気学は発達し、磁気学は発達して
「星雲説」
は生れ、
「物質不滅説」
は生れ、
「引力説」
は生れ、
「相対性原理」
は生れて、これらの見解が各々別個の意義において宇宙観の根本基礎となった。
原因となった。
精神となった。
魂となった。
心となった。
そして有らゆる天地間の日月星辰をはじめ、自然界の森羅万象は悉く皆、無窮の空間における数限りない極微物質の集合体であると解った。
さればもはや自然科学の教うる所では、宇宙も月も、太陽も星も、その他の静物も動物も、いつかは破滅し、いつかは再起すべきものと看做すよりほかに採るべき結論はなかった。
如何にもこれは真理に違いない。
されどこの自然科学的主知主義の思想がどれだけ多く近代の
「資本主義的機械工業」
を助長せしめ、ひいて善良なる無辜の民衆を駆りて、ますます生活難の苦楚を嘗めしむるに至りたるかという事については、恐らく如何なる
「唯物論者」
といえども、これを否認するに躊躇するであろう。
機械工業にとっては資本主義がその生命である如く、唯物論者にとっては自然科学はその食糧である。
資本主義を倒壊すれば機械工業は滅び、自然科学を無視すれば唯物史観は跡を絶つ。
資本主義を肯定せんか、近世の経済組織はこれを認めざるべからず。
自然科学に忠実ならんか、唯物史観は竟に棄つべからず。
斯くて
「唯物史観論者」
は一個のヂレンマの前に立つ。
「資本主義を撲滅せよと言うにあらず、ただこれを救済せよと言うのみ」と。
果して此の見解正しきか。
そこに私は敢然として
「無産主義」
を提唱して行くのである。
曾て人類は生れ出づる時、赤裸々の無一物であった。
それは温かい自然の懐が彼れの一切の所有であったからだ。
然るに諸種の社会制度は漸次人を機械やハンマアに堕落せしめた。
短的にパンを獲ることの可能な状態に置かれていた原始社会に、人智という暴力を加えて縦横無尽にこれを荒した。
そしてまず地上に構大な邸宅を建設した。
その後相次いで起る銀行、会社、商店、株屋の跋扈は、遂に
「利益」
の前には何物をも犠牲とするに至った。
国家と国家との戦いも茲に胚胎し、政党と政党との争いも茲に胚胎し、個人と個人とのいがみあいも茲に胚胎して、謂う所の
「権力至上時代」
「黄金万能時代」
「資本専制時代」
の世界を樹立した。
〔大正10年9月11日 『新愛知』 「緩急車」欄〕