科学に対する二傾向の批判 (上)

紅杜鵑

二十世紀の科学文明が社会思潮の上に与えた影響は甚大である。合理主義の傾向が強められたということは科学的方法と直接関係のあることで特にいうまでもないが、科学とは全く縁遠い神秘的影響が科学によってなされたということは、特にいうべき価値があるだろう。この神秘的影響はさらに二つの傾向を含み、その一は排科学的で、その二は迎科学的である――勿論こういう傾向は他の見方から、専ら科学の影響に数え得ないともいえるだろうが。

科学の排科学的神秘的影響とは、どんなことかというと、デカダンと迷(或いは盲)信を含む両極端の快楽主義というのである。「科学がなんになるか。決して吾々の幸福を増進してはいないじゃないか。幸福なんてものは科学的施設の一体どこに見出されるんだ」(なるほどそうだ!)というような考え方が吾々を、或る場合にはデカダンすなわち敗廃はいたい的官能主義に、或る時は迷(盲)信的冥想めいそう的すなわち消極的快楽主義へ誘うのである。さらに迎科学的神秘的影響といえば、例えば「人間の智恵てえもなあ、えれえもんだ。飛行機が出来た、無線電話が出来た。これから先またどんなどえらいものをこさえるかもしれねえなあ」と田舎者が驚いているような態度である。これは吾々を一種の理想主義的傾向に導くものとすることができよう。

前者はいずれにしても科学に対する侮蔑ぶべつであって、理智に対する否定である。後者は科学に対する一種の憧憬である。もちろん今時に科学万能を信ずるような馬鹿者はないだろうが、後者の傾向はそれ以外の意味において科学に対する信仰のごとき形で現れているということもできよう。ちょっと考えてみると、いかにも前者の傾向は科学の真相を道破どうはした偉い考え方のように見え、後者はあまりに幼稚な原始的感情のように思われるのである。が、果してどうか?

科学文明が吾々にいかほどの幸福をもたらし得たかは、実に疑問である。恐らくは幸福を与えないで、吾々から幸福を奪い去ったといえないこともないだろう。だから大本おおもと教では日本人は「からのまねをするぞよ」と非難するのである。微弱かよわい人間の力が何になる。自然の偉力の前にそれは虫けら同然じゃないか……科学は自然に対する反逆だ、しかも哀れむべき反逆だ、といって或る者はアルコールと淫楽の中に安住の地を得たと思い、或る者は神(或いは自然)の懐を母のそれのごとくに恋うるのである。何もこういう傾向は今に始まったことでなく、昔からふっと真面目なる理想主義的生活に疑いをいだく者、必ずここに至るのである。なかんづく所謂いわゆる積極的快楽主義については私がいうまでもなく、すでに非難の的となっているのである。およそ何事にも徹底すれば結局一つの悟境ごきょうに達することができ、ベデキンドの怪奇自然主義の作品のごときものから崇高なる霊魂の声を聴き得るのであるが、何にしても生半可な官能主義ほど唾棄すべきものはないであろう。

一方この肉に対する神秘的憧憬と正反対の極端を見ず、消極的快楽主義について見ると、世間はあたかもこれに向って讃美の眼を注いでいるように見える。裏面に幾多の疑雲ぎうん暗影あんえいを包む宗教のごときはおいて問わず、老荘或いは釈迦、トルストイ等の思想の一部を標榜する陰遁いんとん的傾向は澎湃ほうはいとして社会思潮の上に被いかぶさりつつあるように見える。それはそういう陰遁的生活は俗眼にいかにも清げに見えるからである。三宅みやけ雪嶺せつれい氏がかつて中央公論において、日本人はすぐ科学疲れするといっていたのは本当である。近頃流行の田園趣味のごときも科学疲れの一面と見ることができよう。これらは社会心理に属するのであろうが、文化生活といわれるものの中にもこういう陰遁的傾向が見えるのも変なものである。また或る一派の人は、「無智の幸福」とか貧の価値とかいうことを唱道し大本教や何かと比肩ひけんし得て、科学すなわち理智に対する侮蔑のみならず、人生に対してほとんど絶望の声を放つを比々ひひ皆然りといわねばなるまい。

〔大正10年10月3日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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