想い出のまま
加藤生
この一文は法則主義なるH氏に捧ぐ
一
破産した恋の死骸!見る影もなく踏み躙られた心!それには、一種言うべからざる、深い悲哀が伴うものである。また、切実に生命の尊さを思う時にも、錯雑した事情に衝突した時にも、勝利者となって敗残者を看た時にも、私の心には必ず淋しいような、悩ましいような、大声で叫喚したいような悲哀に強く鎖されるのである。
二
「無関心」、それは余りに否定的な語である。堪え兼た、遣る瀬なき悶々の情に圧迫されて、生命の尊さを考えざる、而して、自己に忠実ならざる語である。そこに肯定的な「深み」ある意義をどうして求め得ようか。
無関心の生活は、虚偽の生活である。遊戯的気分による生活である。私は、そんな生活では、不満足である。熱烈な生活、真摯な生活、それを私は要求したいのである。
三
真摯な生活は、虚偽や遊戯的気分を許さない。ほんとうに愛し、ほんとうに悲しみ、ほんとうに信じ得る、至高至醇な感激に満ちた生活であらねばならぬ。この意味において、「悲哀」「苦衷」は、真摯な生活の道程である。「悲哀」「苦衷」その事それ自らが、真摯な尊い事であると思われる。逆境にある人々の心は、順境にある人々の心よりも、純な、清い(聖)心になりやすいものである。「悲哀」「苦衷」は、偉大なる力をもって、愛の生活、信仰の生活へと導く。
四
淋しい孤独の感情や、悩ましい悲哀苦衷を、私はしっかりと攫んで、心行くばかり味わいたいと思う。而して、それを藝術や道徳や宗教等の出発点として、調和したる生活を要求するのである。いわゆる調和したる生活とは、愛の生活、奉仕の生活を謂うのである。
「悲しみと苦しみとをもて織り成されたる説」には「悲しみつつ苦しみつつ生を讃美する心が湧く」(愛と認識との出発 百七十八頁)と共に、愛の生活、奉仕の生活は必ず実行され得るものと確信するのである。西田天香氏の一燈園における生活は、私には溢るるばかりの感情と深い意味とを以て、人生の生活に敬虔の念を喚起せしめる。
五
基督教の愛他主義に反抗して自我主義、不平等主義を唱え、ショウペンハウエルが人生否定の厭世観に対してニイチェは人生肯定の英雄主義を叫び、「超人」を旗標として、勝者勇者の道徳には「生の喜び」が溢れ、勇気と力と誇りとが充ちているが、弱者敗者の道徳は全然屈従的で、充実した力が見られないと考えた。「勝者と敗者」「勇者と弱者」、この対象はどうしてもニイチェのごとくには考えられない。勝者勇者の道徳には「生の喜び」が溢れ、勇気と力と誇りとが充ちている、とニイチェは言っているが、私はこの見解に賛成ができない。何故ならば、私の内部に横たわっている愛の信念は、これを打ち砕いて、「いずれが勝者か敗者か」「いずれが勇者か弱者か」わからないような、むしろ円融的調和的なる態度に導くからである。真の愛は自己を減損するものでなくて、かえって自己を完成するものである。
六
恋愛も教育も労働問題も、愛の信念から出発したいものである。愛は一時的なる熱狂を許すものでない。過度の冷熱による愛は、醜い愛である。真の愛ではない。恋がこうした愛に陥るならば、それは真実の恋ではない。純な美わしい恋でない。肉体を抱いて満足するような平凡な恋と同じものである。
七
虚偽と冷酷、圧迫と犠牲とを何とも思っていない今日の社会に、愛や敬虔や謙譲をもって、正しい、人間らしい真摯の生活に改造せんとする正義の炎は労働問題となって起ったが、その問題の解決を与うる鍵鑰は、要するに愛の信念であらねばならぬ。
正義は社会における道徳的原理である。秩序を紊さない、愛の原理である。罪人を罰するのは彼を愛するからである。涙ぐましい愛に充ちたる真摯なる人は偉大なる社会の改造家であるとともに、正義を尊重する道徳家というべきである。
八
教育もまた本質的に愛の信念によりて実行さるべきである。人生に最も貴い愛、それを離れて真の教育は説き得らるるものではない。児童を愛せずとも、また愛し得られなくとも、学に精通し、術に堪能であれば、それで真の教育家であるとは言われない。また愛がなければ知育も訓育も体育も徹底的な意義は見出されないのである。母親に抱かれながら、火の中でも水の中でも微笑んで敢て辞せない子供の母親を信ずるにも等しい念は、「教育の感化」の中に見ることができる。
実にや教育は「愛」によってその意義と光明とを発揮するものであると私は深く確信するのである。(九月二十三日)
〔大正10年10月6日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕