労働運動者として (上)

荒谷宗治

労働運動の炎は、白熱化した宗教的人類愛からと、冷たいパンの残砕ざんさいからと燃え上る。

働いても、働いても、喰って行かれない人間生活の苦しさにかねて、「我にパンを与えよ」と叫ぶのは無論、純粋の経済運動だ。けれども、それだからそこに何らの尊貴そんきなる宗教的意義がないとするなら、それこそ憐れむべき、「神」も「人生」も知らない薄っぺらな宗教者流の寝言だ。

神の意志が物質界に具体化して現れる時、それは人間生活と成って実現するのだ。人間生活をほかにして神を見ることは絶対に不可能だ。人として正しく強く生きようとすることは神の意志の発現だ。

生きようとする意志がパンを要求するのだ。「我にパンを与えよ」とは、人間を通じて叫ばれる神の声だ。神の意志は予言者への啓示や雲の柱としてのみ示されるのみではない。淳化じゅんかせられたる民衆の声に神の意志を聞くのでなくては本当の宗教は生きて来ない。

宗教が完全に人生を支配するようになれば、そこにはもはや何らの経済的争闘は起り得ないであろう。けれどもそうした黄金時代の実現が今日までのいわゆる宗教運動――教会と慈善事業――によって為されると思うなら、よくよくの間の抜けた、お目出度い楽天家だ。現在の多くの教会と慈善事業とには神は存在しない。神は教壇の下深く埋没されてしまって、そこには資本主義の本尊、黄金の偶像がさんとして輝いている。敬愛すべき善良なる多数の牧師諸君は、神の羊を飼うかわりに、孜々ししとして資本家のために従順なる羊を飼いならすことに余念がない。怯惰きょうだなる宗教家は無信者よりもより多く神を虐殺する者だ。

しかし何といっても、滅び行く人間を救うものはやはり十字架だ。十字架なくして人生は救われない。十字架の精神は絶対の愛だ。愛は自然と人生における最高の法則だ。愛の法則が人生を統御とうぎょするようになれば、そこにはもはや宗教も経済も政治も一切が無用に帰するはずだ。そうしてすべての人類はあふるる歓喜の潮流に浮揚して、神と人に対する感謝の歌に我を忘れて暮すであろうはずだ。

人生の真実相は現在でも愛そのものの具体化だ。我らの髪の一筋ひとすじ、爪の一片といえども、全宇宙に溢るる神と人との愛なくしては存在しないのだ。いわんや我らの五体をや、生命をや。我々にして本当に自分自身の生活の真実相を透見とうけんし得るならば、今そのままでも溢るる感謝の霊泉に浴して歓喜の涙に泣き濡るるはずだ。けれどもただ現在では憎悪の悪霧あくむが我々の眼界がんかいを覆うている。我々は本当の自分を見ることができない。資本主義は「憎悪の法則」だ。そのみきは人間の最もいとうべき「利己エゴイッシュ性」に根ざして延びている。文藝復興期ルネッサンスの大運動によって人間性の復活なる美名の下に、硬化せる教権と王権との桎梏しっこくより解放せられたる人類は、自由の仮面にあざむかれて、悲惨にもまたもや、より深き悪魔の陥穽かんせいおちいり込んでしまった。見よ、過去二百年間における人間生活の大飛躍を。そこには三千年の人類の歴史にかつて見ざる大建築が現れている。蒸気機関の完成に伴う交通機関の大進歩と工業組織の大発達は、全く人間生活を形式内容ともに一変させてしまった。電気の発明と火薬の完成とは、人間の殺戮さつりく法をさえも空前の大規模なものにまで育て上げた。過ぎし五ヶ年にわたる欧州の大戦争は、いかに人類が悪の能力においても雄大なものになったかを実証するものではないか。

〔大正11年2月6日 『名古屋新聞』 「反射鏡」欄〕

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